【麒麟がくる】風水都市”江戸”が京都を越えた理由に関与!?明智光秀は天海か?

麒麟がくる天海



2020年東京オリンピックが再び開催される年です。これも東京に施された強い「日本風水」の成果の一滴ともいえるのですが、東京(江戸)に日本風水を施したのは「天海」という大僧正だと言われています。2020年の大河ドラマに抜擢された明智光秀は、智将でありながら逆賊のそしりを受けて久しいのですが、その光秀が「天海」となりかわり徳川家康を補佐したとすれば、仁政を敷く君主があらわれることを意味する『麒麟がくる』とは、若き日の光秀の未来展望であったのかもしれません。

人口百万人、当時のロンドンやパリにも勝る世界最大の都市「江戸」

江戸の人口と面積の推移

1609年ごろ江戸を訪れたフィリピン臨時総督在任中のロドリゴ・デ・ビベロによると江戸の人口は当時15万人、京都が30~40万人、大阪で20万人と記録しています。

1632年の『武州豊島郡江戸庄図』では、低湿地帯の埋め立てと城下町建設がすでに完了し、江戸城下町はほぼ15 km2の面積に広がっている様子がわかる。当時の町人人口試算を行うと12万6千~25万2千人(中部よしこ氏)との推定がなされており、これに武家人口25万人~40万人と試算されるとしています。

1635年に参勤交代が始まると武家人口と共にその暮らしを支える町人人口も増えました。1658年明暦の大火の被災者への見舞金からの江戸町方人口試算によると約28万5814人(小宮山綏介氏)となっています。

1647年頃 江戸総面積43.95 km2

1670年頃 江戸総面積63.42 km2

1679年には江戸町数が808町に。

1693年 ※公文書(『撰要類集』『享保撰要類集』『町奉行支配惣町人人数高之改』『天保撰要類集』『市中取締類集』)の他、複数の史料に記録として残っている江戸府内の町奉行支配下の町方支配場・寺社門前地の町方人口 353,588人

1713年には江戸町数が933町に。

1718年 ※434,633人

1721年 ※474,049~501,394人

1723年 1,672町 1725年頃は江戸総面積69.93 km2

1746年 1,678町

1786年 1,367,880人?

1826年 江戸を訪れたシーボルトによれば江戸の一般人人口を131万人、武士も入れて最低150万人だと記述。

1843年 1,719町(江戸町方支配場・寺社門前地の町数合計)

1865年 江戸総面積79.8 km2

参考:ウィキペディア

様々な記録の書物や、外国人による調べなど色々な数字並べられていますが、江戸は18世紀後半には100万人を超える大都市だったことは確かなようです。1600年から約200年で十倍近い人口を抱えるようになった大きな要因は、江戸に巡らせた「のの字水路」だと言われています。らせんを描くように作られた水路は、パワーが中央に集まりやすいという特徴があります。



江戸の日本風水手法

「風水」と言えば、中国で発展した「天文地理」を読む地勢学です。皇帝がパワーのある土地に都を築くために「天の気」と「地の気」を読み取る手法だと言われています。風水の技術は取り入れつつも陰陽道という日本独自の道を取り入れたまちづくりが、江戸城を中心として仕込まれているといいます。

1.「四神相応」の根源「五神相応」の地形
関東地方に幕府を置こうとした家康はその地形により適した拠点を天海に求めました。その際に基本としたのは「四神相応(しじんそうおう)」という中国伝来の風水による最高とされる地相条件による判断でした。「大地の旺気は、主山の龍脈(りゅうみゃく)が龍穴(りゅうけつ)から噴き出す」という考えのもと、江戸城下の都市計画が施行されたのでした。

四神相応とは「東に青龍(連山、流水)」「南に朱雀(鳳凰、澤畔、池・海など)」「西に白虎(山脈、大道)」「北に玄武(蛇が絡みついた亀、高山)」の意で、「大地の旺気は主山・祖山の龍脈を伝わって龍穴より噴出する。その気を風に吹き飛ばされないように砂(さ)が取り囲む。旺気にあふれたその場所を明堂と呼び、墓所・住宅・都市を建設するのにふさわしいスペースである。(引用元:『神道と風水』戸矢学著)」という理屈で、日本以外では風水が施されているとしています。けれども日本に伝わった段階での四神相応には欠落した要素があると戸矢氏は指摘しています。

古代日本には「五座(ゐくら)」という概念があります。「うつほ(空)・かせ(風)・ほ(火)・みつ(水)・はに(土)」ですが、これが中国で「五行思想」として体系化されました。五行思想とは簡単に言えば「万物は五行から生成される」という考え方であらゆるものは五行(木・火・土・金・水)の中に分類されます。そのなかで五霊獣として「龍(木)・鳳凰(火)・麒麟(土)・白虎(金)・亀(水)」があると指摘しています。古神道に由来する「四神」ならぬ「五神」を強く意識して、江戸はつくられています。戸矢氏の見解よる江戸の風水は以下です。

【玄武・主山】日光白根山(恵方・北北西)、丹沢山地(西南西) 【祖山】富士山(西南西)
【明堂・麒麟】富士山の旺気に抱かれた江戸
【青龍】鎮守の森としての千葉房総半島
【朱雀】江戸湾
【白虎】丹沢山地の独立峰・大山

恵方を取り入れた風水は陰陽道のオリジナルなのですね。恵方を取り入れた天心十字(方位十字)は京都など歴代古都になく、江戸だけだとしています。

2.地形だけではない、鬼門守護
江戸は四神相応の恵まれた地形というだけではなく、がっつり鬼門の守護神を配置しています。鬼門の考え方も日本独特です。日本という国の形状が北東から南西へを気が流れる形をしていることも大いに関係しているようです。古代、鬼門守護を仰せつかった神は「うつ(空)ろい」と云う神だと『ホツマツタヱ』には記されています。江戸の場合、恵方に方位をずらして鬼門守護を設定しているといいます。

【鬼門守護】神田神社、浅草神社
【裏鬼門守護】山王日枝神社

3.らせん水路
水路は物流のため都市づくりの動脈ともいえる重要なインフラです。水路をらせん状につくると、その周りに人が集まり街ができますが、らせん状であることにより街が無限に広がる可能性を持たせることができます。らせんには呪術的な効果があると戸矢氏はいいます。古代よりどの帝都も風水都市であり京都においては1200年の歴史を刻みました。けれども、東京には京都を上回るほどの強力な風水が施行されたから、これほどまでに発展したのだと。その秘密が「らせん構造」にあると指摘しています。

江戸という都市を設計したのは南光坊天海(なんこうぼうてんかい)と言われていますが、天海が修行した比叡山の天台密教では螺旋(らせん)構造を重要視しており、高野山の真言密教においても同様です。四国八十八カ所巡りは本来「らせん状」に巡るものであるし、天台宗の千日回峰行も螺旋に巡るものだといいます。マンダラ自体が螺旋構造を持っていて、螺旋構想は中心へ「気」を引き込むための呪術的手法であると戸矢氏は述べます。水路のらせん構造が、京都にはないのです。

江戸以前、織田信長の安土城や豊臣秀吉の大阪城城下にはらせん構造が取り入れられたのですが、その後風水を良く知るのちの将軍徳川家康に破壊されてしまいました。大阪城は「風水断ち」に遭ったのです。考えてみれば、海にできる渦も、台風も、銀河系宇宙にできる渦も、すべて中心(ブラックホール)を持つ渦を形成します。

このような日本風水、陰陽道を江戸に施したと言われる南光坊天海(なんこうぼうてんかい)という人は何者なのでしょうか。



日本風水都市“江戸”をつくった?天海のプロフィール

風水は中国で発展した天文地理の気を読み、お墓や住居、都市づくりに生かす知恵です。日本に古来からあった“ゐせのみち”という叡智をベースに、中国で発展した風水、道教、仏教などを取り入れて発展した陰陽道(おんみょうどう)による「天文地理」を施したと言われている天海とは、どのような人物だったのでしょうか。

天海の年表

1536年 福島県大沼郡会津美里町高田で誕生。幼名/兵太郎 父/舩木、母/蘆名氏(あしなし)の娘(須藤光暉『大僧正天海』説による)
1546年 11歳 実家近くの龍興寺(りゅうこうじ、天台宗最澄の弟子で最後の遣唐使・円仁創建)で出家。3年間修業。
1549年 14歳 宇都宮の現宝蔵寺・皇舜に弟子入り。
1553年 18歳 天台宗総本山比叡山に入山。
1556年 21歳 比叡山を下山 大津の三井寺、奈良の興福寺で修業。林和成重に『日本書紀』を学ぶ。法相、三輪を学ぶ。
1558年 23歳 母の病気で帰省。母の死。
1560年 25歳 栃木の足利学校で4年間まなび、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を習得。
1564年 29歳 群馬県太田市世良田の善昌寺で学ぶ。
1571年 35歳 比叡山入山を志すが、織田信長により比叡山焼き討ち事件が起き断念。明智光秀を介して武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住し、天台宗の講義を行う。
1573年 37歳 会津に帰省。
1577年 42歳 善昌寺で5年間の修行の後住職に。会津若松の黒川稲荷堂の別当(長官)をつとめ。
1589年 53歳 慮名氏が伊達政宗に攻められ、ともに白川に逃れる。
1590年    江戸崎不動尊院を再興し、住職となる。55歳川越の無量寿寺の北院に移り、名を天海と改める。
1598年    増上寺を現在地(裏鬼門に当たる)へ移す。後に2代将軍秀忠を葬って徳川家の菩提寺とした。
1599年 64歳 無量寿寺の北院の住職に。
1603年 68歳 江戸幕府が始まる年、家康に登用される。(1609年登用説あり)家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸を最適地と押したという。神田神社に平将門を分祀、江戸の鬼門守護とした。朝敵将門を守護に置くことで天皇への尊王感情を民衆がいだかないようにしたともいわれる。裏鬼門には日枝神社を遷宮する。
1607年 72歳 比叡山探題に着任し、延暦寺の改革に5年間取り組む。延暦寺南光坊に居住したので南光坊天海と呼ばれる。
1609年 74歳 後陽成天皇に天台を説く。権僧正に格上げ。
1611年 76歳 僧正となる。後陽成天皇から毘沙門堂門室号の下賜。家康は、川越の無量寿寺北院(喜多院)を関東天台宗の総本山に定め、朝廷側の比叡山勢力を関東に集めることを意図。1612年天海77歳の時に完了。
1613年 78歳 日光山貫主(かんじゅ)を兼任し改革に取り組む。
1614年 79歳 家康の大阪出陣に従い上洛、天皇・上皇との講和につとめる。
1616年 81歳 家康の病床にて、本多正純、黒衣の宰相といわれた金地院崇伝(こんちいんすうでん)と共に遺言を伝えられる。75歳で永眠した家康の神名を本多と崇伝は吉田神道の「~大明神」とするべきと唱えたが、天海がはじめた山王一実神道(さんのういちじつしんとう)による「東照大権現」とすることを押した。理由を「豊国大明神」を神名とした豊臣氏がその後滅亡したとして勝ち取った。遺骨を久能山から日光山へ移したことでのちの徳川政権に大きな影響力を持った。
1619年 84歳 東照大権現を尾張に勧請。
1621年 86歳 水戸、紀伊に東照大権現を勧請。
1623年 88歳 2代将軍秀忠より家光が引き継ぐ。天海は二人の政治顧問であった。
1625年 90歳 将軍家の菩提寺として寛永寺を創建。関東580の寺が寛永寺の管理下に置かれる。同時に江戸の都市計画を構想する。
1627年    上野東照宮を寛永寺隣に勧請。神田神社を現在地に遷宮。幕府の祈願所である浅草寺で東照大権現を祀り、江戸鎮護を厚くする。江戸の三大祭りとして名高い神田神社の神田祭、浅草神社の三社祭、日枝神社の山王祭は鬼門を清めるためとされる。寛永寺・神田神社―増上寺ラインと浅草神社―日枝神社ラインの交点に江戸城は位置する。天海は将門の霊を街道と堀の交点や江戸への出入り口に配置して邪気が入り込むのを食い止めた。
1628年 93歳 京都金地院に東照大権現を勧請。
1632年    2代将軍秀忠を増上寺に葬る。
1636年 101歳 家光より依頼の『東照権現縁起 上巻』完成。
1637年 102歳 『天海版 一切経』を活版印刷計画発願。
1640年 105歳 『東照宮権現縁起絵巻(仮名本)』全5巻、『東照権現縁起(真名本)』中巻、下巻が完成。江戸城完成。
1643年 108歳 五か条の遺言「1.東照大権現の神威を増す 2.天台宗を繁栄させる 3.天海の後継者に親王を迎える 4.毘沙門堂の門室を再興する 5.天皇反逆罪で流罪になっているものを赦免する」を残し寛永寺で永眠。
※誕生日不詳のため、およその年齢

天海と明智光秀

南光坊天海(なんこうぼうてんかい)という人物は、前半生は殆ど勉強ばかりしている方です。転機となったのは、信長の比叡山焼き討ち事件ではないでしょうか。天海と明智光秀が交差するのはこのポイントです。

1571年 信長に従い比叡山焼き討ち。時に明智光秀は44歳、天海は35歳とされます。
1572年 光秀は近江滋賀郡5万石に封ぜられる。琵琶湖岸に坂本城を築城。
1578年 光秀51歳の時、丹波国亀山城を築城。翌年丹波29万石に封ぜられる。
1582年 光秀は徳川家康の接待役を務める。本能寺の変。変の後、山崎の戦で秀吉に討伐され、おちるところを農民の武者刈りに遭い死亡したといわれる。光秀55歳。天海はこのころ会津若松で住職をしている。
1590年 関東の寺の住職や別当を務め「天海」を名乗る。55歳
1598年 増上寺を現在地に移転しているが、天海(63歳)と家康の初仕事かもしれない。生きていたら光秀71歳。

明智光秀は、天海となる前の天海を武田信玄に取り次いだと言われています。

そんなことから妄想がひろがります。(以下、妄想)

光秀が天海を殺さなかったのは、大変な学識を誇るその才能を見出したのかもしれません。天海は本能寺の変の際に、その時の恩返しをしようと明智光秀を落ち延びさせます。もともと知性にたけた明智光秀は、8年の歳月で天海の教えを全て吸収しつくし「天海」を名乗った。もしくは、明智光秀が「天海」の影武者となったか、天海が「明智光秀」の影武者を務めた。

とか

徳川家康と接触した際、光秀は密儀を交わし二人協力の元「信長を討つ」計画を策定した。光秀は秀吉に負け、家康が身柄を確保した。その後は、のちに僧のもとに身を寄せて僧侶として修業を重ね、天海となって家康を補佐した。家康は実は大坂の陣で真田幸村に殺されているが、「怪我」をしたことにし、双子の兄弟に「影武者」を務めさせ、徳川7代まで天海(光秀)の天下となった。

さて、史実はどこにあるのでしょうか。



江戸の繁栄を築いた天海が、麒麟をよびよせた

こうして調べてくると、天海も明智光秀もその前半生がきわめて不明瞭で、定説が存在しないことです。光秀が天海だった可能性はとても高いと感じられますが、重要なのは江戸の街を平和に発展させたそのお仕事です。

天下を治める将軍家を安堵するのはあくまでも神となった徳川家康であり、それが太極でした。太極=麒麟の座す場です。太極の神威を増すことで、平和が訪れ世界でもまれにみる大衆文化が花開きました。そしてその太極は仕組まれつくられた太極だったのです。

トップ画像背景: 佐桃冬雪さんによるイラストACからのイラスト

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