エジプト18王朝アクエンアテン王と天孫ホアカリ




エジプト第18王朝アクエンアテン王のお顔を拝見するとどこかで拝見したような気がしてなりません。
王が亡くなるとミイラにしたエジプト王朝ですが、アクエンアテン王のミイラはまだ特定されていません。
宗教革命を起こし、初めての唯一神信仰を推進したアクエンアテンは出エジプトを成したとされるモーセのモデルとも言われています。
アクエンアテンの時代には強大な権力を有し王を動かすまでとなっていたテーベの神官たちだけでなく、多神教を報じていたエジプトの民からも敬遠された王の末路はどのようなものだったのでしょうか。

「当時力を持っていたアメン・ラー神官たちからの影響を逃れるためにアクエンアテンは日本へ”帰還”していた」
と仮定したならは、どんなルートでやってきたのでしょうか。

アクエンアテンの出エジプト計画

エジプトから消えたアクエンアテンは日本を目指しました。大臣で後に短命のファラオとなるアイは、婚姻同盟を結んでいたミタンニ王族とカッシート王族、アッシリアなどに協力を要請しアクエンアテン王族の出エジプトを画策し、紀元前1336年ごろから実行に移します。

折から疫病の流行があり、まずは王妃も娘たちも実家のミタンニ王国へ帰省中に亡くなってしまった事にしてエジプトを脱出します。その後、アクエンアテンはアマルナからメンフィスへ向かい、シナイ半島へゆきシナイ山で神からの賜りものを降ろされます。
共同統治者となっているスメンクカーラーは、アマルナを出立しデンデラ、コムオンボなどミイラ職人神官の拠点を経てベレニケの港からプントの船に乗り込みます。そしてアラビア半島先端のアデンでマカンの船に乗り継ぎインド南端にあるムージリスに停泊します。
※もしくは、シナイ山まではアクエンアテンと同行し、そこから船で脱出するアクエンアテンと別れてカナンへと向かう。

一方別動隊のミタンニ王族とカッシート王族は、シナイ山から降りてきたアクエンアテンと合流し、ペルシャ湾をディルムンの船でムージリスへ向かいスメンクカーラーらと合流します。ここで32人の護衛も含めた5班864人の船団で東へと向かいます。当時の商船は海軍を伴った船団を組んで航行したので、別段怪しまれることもなかったことでしょう。それぞれの海域に通じた海洋民による船を利用し、軍隊を擁しているので海賊に襲われても王族を守ることができました。

ムージリスまで迎えに来た南の”海のサカ族”であるマラ族アマツマラの船に乗り変えてマレー半島を巡り、南シナ海、東シナ海を渡り黄海に入って東営市の港から殷に入ります。

海洋交易と100の王国

受け入れ側の日本の状況はどのようなものだったのでしょうか。
日本では北海道や青森、秋田、新潟、富山や九州、広島などに王国をつくり1000年以上も平和に暮らす民度・文化度があったようです。稲作が始まり穀物栽培もされていてだんだんに人口も増えてきていました。建築技術も高く豊富な材木を加工し地震に強い仕口が考案されてもいました。ある地域では漆を使い、金や翡翠や丹生が産出され、盛んに大陸との交易も行われていました。神々の子孫が王となり神々の会議による神託を得て祀りことを行っていました。九州と朝鮮半島は氷河期に陸続きであった名残で同じ国として飛び地を治めるというところもありました。鉄鉱石が輸入され、製鉄のための植民都市のような機能をする国もあったという説もあります。けれどももっと古い文明の跡、巨石やピラミッドなどは深い森の中にすでに覆いつくされ隠れていました。

アクエンアテンが日本に降りる何百年か前に外寇により、日本列島がハチの巣をつついたような争乱が起きたことがあります。

出雲王朝の祖ドラヴィダ族

出雲口伝では、インダス文明の担い手であったドラヴィダ族の一部は日本へ逃れて出雲族の中核になった人々だとされますが、元をたどればカッシート人が作ったバビロン第三王朝の人々です。ウバイド人が伝授し生まれたシュメール文明を進化させたカルデア人の一部はインダス文明の担い手となりましたが、やがてインドラの化身とされる王族にインドを追い出されるようにして出て日本へやってきたのです。アーリア人の侵入によるものであるならば紀元前1500年ごろのお話です。ドラヴィダ王族は二度インドラの化身に殺されたという伝承を持っていて、出雲族の伝承では三度の外寇により一部が大和の地へと移住していきます。民族が移住するとき争いや混乱は起きます。『ホツマツタヱ』では6種類のハタレが都をめがけて襲い掛かってきた話がありますが、日本へは何度となく様々な民族が入ってきたことの伝承なのかもしれません。

ドラヴィダ族が出雲を拠点としてからほどなく、遠い彼方からタルシシ船団が九州にたどり着き拠点を設けていきました。アクエンアテンの船団が九州の奈多海岸に到着したのはそんな時代でした。

志賀島に海神の総本社「龍の都」といわれる志賀海神社があります。ワニ船を操ったシガ族の拠点です。中国や朝鮮への渡航はワニ船を使ったので、殷の港へとシガ族が赴き、エジプトの王族を迎えに行ったと考えられます。アマツマラらも引き続き同行し何とか無事に奈多海岸へたどり着きました。そこには志式神社がありますが、ご祭神は火明命となっています。一行はそこでいったん休み、若狭へと向かうことになります。

冠島に降臨するアクエンアテン

若狭湾に浮かぶ冠島に老人嶋神社(おいとしまじんじゃ)があります。ご祭神は天火明命と日子郎女命(ひこいらつめのみこと)です。年に一度行われるペーロン(白龍)競艇は九州などでも行われており、周辺漁民の古い来歴であろう南方系漁民の民俗であったことを示唆しています。冠島には祭礼の時以外は誰も入ることができません。祭礼の際も氏子以外は船から見守るしかないのだそうです。氏子は大浦半島の野原、小橋(おばせ)、松原地区にいて、一つ目小僧の昔話や海洋民族子孫であるという伝承が遺されています。一つ目小僧のプロトタイプは鍛冶の神天目一箇神(あまのまひとつのかみ)です。南方から来た船には鍛冶職人もいたのでしょう。アマツマラと同一神とみる説もあります。
老人嶋の名やおばせという地区名から、姥人(ウバイド)がちらちら見え隠れします。

地区により祭礼の日は異なるようですが、昔は老人嶋の女神を祀る日は3月3日とされていたそうです。
アクエンアテン治世12年3月3日に同盟国を招いた王室レセプションが行われたことが、秘書メリル2世のレリーフに残されています。レセプションは王妃ネフェルティティのための会だという説もあります。ネフェルティティという名の意味は「3」という意味があるということです。3月3日は王妃にとって重要な意味があるようで、老人嶋上陸後もその日を大切にしていたのかもしれません。冠島に近い宮津の籠神社に祀られるご祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるあめのほあかりくしたまひぎはやひのみこと)なのですが、ここで奥様の名は市杵島姫となっています。宗像三女神の一柱です。火明命がアクエンアテンであり、饒速日は共同統治者であったスメンクカーラーとして皆エジプトからの船でやってきたのです。

アクエンアテンは側近とともに綿密な計画をもって日本入りしました。九州でタルシシ船団を纏めるエブス人の導きで冠島へと上陸したのでしょう。冠島には姥人にちなむ老人嶋神社のほか、船玉神社があり恵比寿神が祀られています。

その後アクエンアテン=火明命はここにとどまらず大和へと降臨することになります。

消滅したアスカ宮

火明命はアスカに入るための詔を「とおやのあまつかみ」から授かっていました。モーセが神によってカナンの地を与えられたのと同じように、それは神からの指令でした。十種神寶(とくさのかんたから)という、正式な皇統であることの璽を持っていたために、大和に土着している豪族たちを抑えることができたのです。モーセが受けた十戒と十種、内容はまったく違いますが数が同じですね。

火明命が大和で最初にしたことは、十種神寶の祭祀を行うための香久山の築山でした。香久山を築山した当時は生い茂る樹はなく、さながらピラミッドの様相でしたでしょう。アクエンアテンのエジプト新王朝時代にはすでにピラミッドは新しく建てられていませんでしたが、日本のこの地で巨大な山を造ることは権威の象徴だったのだと思います。十種祭祀の斎主はアマノコヤネの一族でした。アマノコヤネは当初の左大臣でした。右大臣は大物主です。左右大臣は紀元前1333年に消えたミタンニ王国の王族です。

はじめ斑鳩の宮に入った火明命でしたが、すぐに遷宮をしたがりました。アクエンアテンが、テーベからアマルナに遷宮した事績に似ていますね。しかし、あまりにも早すぎる遷宮を反対したアマノコヤネと大物主は大臣を退きアクエンアテンのもとを去ります。次に左大臣にはフトタマ、右大臣にはカゴヤマ(高倉下の父)が就きました。こちらは同じく紀元前1333年に消えたカッシート王国の王族です。

しかし、そのあとすぐに火明命は姿を消し、跡を継いだ饒速日尊のとき九州からタケヒトが大和入りを画策すると、早々にアスカ宮をウマシマチに譲り饒速日尊も姿を消します。そうしてウマシマチがタケヒトに抵抗するナガスネヒコを消しアスカ宮を閉じてタケヒト(イワレヒコ)に恭順し、その報酬としてウマシマチを祖とする物部氏が発生しイワレヒコ王朝の重臣に取り入れられます。

追記:共同統治者スメンクカーラーは何者か

歴史にも名を遺すスメンクカーラーという人物はアクエンアテンの弟とも、息子ともされていますが実際は何者かよくわかっていません。お妃のネフェルティティが姿を消してすぐに登場しているところから、男装したネフェルティティではないかという説もあります。

アクエンアテンとモーセの時代的は100年~50年ほどずれているのですが、モーセ=スメンクカーラーだとしたらあり得るかもしれません。
一緒に出エジプトをして、同時期に姿を消し、50年ほどカナンでヘブライの人々と過ごした後日本へやってきて火明命の跡を継ぐということもあり得ます。
エジプト第15王朝はヒクソス(エブス人などアジアの人々)の王朝といわれていますが、中にヤコブヘルという名の王が含まれていて、ヒクソス王朝が倒されてからもエジプトの王朝の中にへブル人はかなりいて特区のような場所にまとまって暮らしていたようです。なので、アクエンアテンが唯一神信仰を推進した際に、似たような唯一神信仰を持つへブル人としてモーセ(スメンクカーラー)がアクエンアテンの政局に入り込んだとも考えられます。

竹内文書にある「モーセは日本にやってきてその墓もある」伝説は真実味を帯びてきていて、地方公共団体を巻き込んでの観光地となっています。
スメンクカーラーがモーセだとするならば、そして饒速日だとするならば何のために、どのように日本に浸透していったかのヒントを落合説が与えてくれています。

アクエンアテンやスメンクカーラーがその後日本でどうなっていったかを探るには、若狭の海にいた海人のことを深く紐解く必要があります。

ヒッタイト王国がローマ帝国に化ける トロイヤ戦争 海の民
鉄と金と馬をもたらしたスキタイサカ族 月氏 匈奴
海のスキタイ島ケルト人、フェニキア人、エブス人ら文明を運ぶ海洋民族

 

kagoスペースヒーラー

投稿者プロフィール

『新地球へ虹の橋をかけわが身を神社にする~18チャクラヒーリング』著者
スペースヒーラー、当サイトのスピ担当として体験したアストラルトリップ,
など投稿します

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