黄金の国フリギアからハプルブルグ家へ、エジプトから天孫へ移る”ガイアの意志”




現在のトルコに位置したヒッタイト王国をつくったヒッタイト人の出自や、ヒッタイト王国がなぜ滅亡したのか、そこにいた人々はどこに消えたのかなど、不肖とされることの多いヒッタイト王国について、自分的にまずまずすっきりすることができました。
ヒッタイト王国がローマ帝国に化ける トロイヤ戦争 海の民
そのヒッタイト王国の最後にかかわった国の一つにフリギア王国があります。誰でも一度は欲しいと思うだろう、すべてを黄金に変える手「ミダスタッチ」で有名なミダス王の国のお話です。フリギアはハプスブルグ家の遠祖ともいえる黄金をもち、幸運をまとう国です。

フリギア王国

フリギア王国はイソップ物語にもなっている「ミダス王」の国です。触ったものをすべて黄金に変える手、ミダスタッチとして世界中に知られた王様です。
フリギアの最古の王はナンナクスとされ、アナトリア中央部コニヤに居たということです。彼の300年後に大洪水が起きました。これがサントリーニ島の噴火によるものだとすれば、ナンナクス王の時代は紀元前1900年ごろということになります。その後スピル山にいたタンタロスが王となった後、神託によりテルミッソスの神殿に最初にやってきた、牛車の農夫ゴルディウスが王位に就きます。彼は、牛車を奉納し神殿に締まりつけました。これは「ゴルディオンの結び目」と呼ばれ、これを解くものがアジアを制覇するといういわれがありました。

パクトーロス川の砂金

ゴルディウスには息子が居ませんでした。妻のキュベレーの許可を得てバルカン半島にいたブリゲス族のミダスを養子にし王としました。ミダス王は、ワインの飲みすぎで行方不明になっていたディオニュソス神の養父セイレーノスが自分の庭にいるのを見つけて接待してから家へ帰しました。ミダス王に恩を感じたディオニュソスは願いを一つ叶えるといい、それを願ったミダス王は触れるものすべてが黄金になる手を与えられました。
しかし、その贈り物が破滅への道だと悟ったミダスが再びデュオニソスに祈ると、エーゲ海沿岸近くのパクトーロス川で行水するようお告げが降りミダス王がそうすると、ミダスタッチの力が川に移り砂金が取れるようになったということです。

トロイヤ戦争で敗走しヒッタイト王を追い出す

トロイア王プリアモスが若いころ、フリギアがアマゾネスから襲われたところを助けたので同盟関係となり、フリギア王デュマスの娘をプリアモスに嫁がせました。紀元前1250年ごろから始まったとされるトロイア戦争の際にフリギアはフリギア出身のアスカニオスとポルキュス軍に属して戦いました。アスカニオスはトロイア敗退後イタリア半島に逃れたアイネイアースの息子です。フリギア王女の妻の死後、アイネイアースとラテン王女との間にできた子孫が王政ローマを紀元前753年建国することになります。ギリシャのポリス連合がトロイアに襲い掛かったこの戦争の直接原因は、スパルタ王の美しい王妃をトロイアの王子パリスがさらったことことだといわれています。しかし、トロイア戦争のあと、ギリシャは暗黒時代へと突入していき、他にもヒッタイトなどオリエントの大国がこの時代に前後して次々と消えていきます。

海の民が大暴れしたとされる紀元前12世紀、大飢饉で各地が食糧難に陥っていたということですから、戦ってぶんどっていくしかなかったのでしょうか。鉱物資源を抑えていたヒッタイトであっても補給路を封鎖され食糧難に及んではもう勝てん、ということでしょうか。フリギア王国はカスカ族やブリゲス族と連合を組んで瀕死のヒッタイト王国を追い落としたとされます。これも海の民の一味とみる説もあります。

フリギアやリディアには多くの鉱山があります。フリギアといい、リディアといい「お金持ち」のイメージがありますが、この時代から大きく勃興する国です。フリギアが関わったトロイヤ戦争でギリシャ軍は勝ちはしましたが次第にギリシャ文明は力を失います。行き場を失くしたギリシャ人傭兵も抱き込みつつ、ほかの国々と連合し、フリギアはヒッタイトの脅威を打ち砕いて消滅に追い込んだのです。フリギアの黄金が周囲の国々や海の民を動かしヒッタイトを滅亡に追いやったというように見えます。

ミダスタッチはウバイド人の知恵

ミダス王はウバイド人の知恵が手の中にあったと考えられます。パクトーロス川で砂金が取れることは、シュメール文明の先駆けとなって灌漑農業を開いたウバイド人の知恵が働いていることを示しています。灌漑工事をしていくことで沼地の底に眠る砂金を収集していたウバイド人です。ということは、ミダス王に砂金が採れる川にする知恵を与えたデュオニソスとウバイド人は関係がありそうです。ダキアを拠点としていたデュオニソスはお酒の神なので、ウバイド人は様々な薬草や果物、穀物から酒を醸造する知恵も持っていたのかと考えられます。薬草酒を飲む陸のスキタイサカ族のお話をしました。
鉄と金と馬をもたらしたスキタイサカ族 月氏 匈奴
彼らはミダス王とデュオニソスの時代からはずいぶん後になるのですが、スキタイサカ族とウバイド人の行動による東アジアとのつながりを感じられて興味深いですね。

しかし、イソップ物語が教えるように何でもかんでも黄金に変える手は「破滅」です。お酒も使い方によっはデュオニソスの父のように酩酊し前後不覚となってしまう恐れがあります。黄金もお酒も使い方により滅亡につながるのだと教えています。

後にフリギア王国を併呑するリディア王国もまた富める国なのですが、初めて硬貨を導入したことで有名です。

ウバイド人の移動ルートに栄華あり

地球は一つの生命体であると説いた『ガイア理論』は世界に大きなインパクトをもたらしました。そして「文明が西回り、東周りに一定周期で移動しているガイアの法則がある」という千賀一生氏が現れました。過去地球でおきた文明の興亡には地球の意志がかかわっているということを述べている本です。地球の意志をどうやって表現するかと言えば、火山噴火、地震、洪水、台風などハリケーンなどです。地球の意志をくみ取って、文明に先駆けて移動する人々がいるということが予測されます。例えば、様々な予言をするアメリカ先住民のポピ族などがいます。ポピ族は高山にひっそりと暮らしていたのですが、世界を股にかけて移動しながら地球の意志を読み取り行動するシャーマンもいたことでしょう。世界を股にかけて金を求めて移動するシャーマン、それがウバイドだという落合説があります。日本にウバイド人がやってきたのは紀元前8000年ということですが、彼らがたどり着いたところで何を祀っていたかを探ると姥神という存在を発見しました。詳しくは述べませんが、地相を探査し測量が得意な彼らは人類の文明史に先立って、実際どのように移動したのでしょうか。その痕跡のようなものが残っているのでしょうか。

紀元前5500年ごろ二つの大河を挟んだメソポタミア地域でシュメール文明が興ります。寒冷化によりシベリア地帯から南下した人々が、エリドゥにシュメール文明の先駆けとなるウバイド文化をもたらしました。500年程経つと、西は東アジア方面へ、東はエジプトやヨーロッパ方面へと分岐したといいます。ウバイド文化を築いた人々の痕跡を探ると5つぐらいのルートが見えてきました。

東海路・ルート1 インド→インドネシア→台湾→日本(紀元前20世紀ごろ)
東陸路+海路 ルート2 エジプト→インド→インドネシア→中国→日本(紀元前14世紀ごろ)
東陸路・ルート3 中央アジア→中国→朝鮮→日本(紀元前13世紀ごろ)
西陸路・ルート4 シリア→アナトリアとコーカサス北→ブリゲスとスキタイ→トラキア・ダキア→バーデン・ブルゴーニュ(紀元前20世紀ごろ)
西海路・ルート5 シリア→クリミア→黒海から地中海へ→イベリア半島タルッソス→ブリテン⇔ブルターニュ(紀元前9世紀ごろ)

西の陸路ルート/コーカサスースキティアーダキアートラキアーバーデンーブルゴーニューハプスブルグ家

ウバイド人はシュメール文明の先駆けとなった後、一部は紀元前5000年ごろテルハラフまで北上しました。テルハラフ建設の中心となっていたフルリ人はウバイド人が来ると同時に他へ移動します。紀元前4500年ごろからウバイド人は鉱物資源豊かなコーカサス山脈の南側で暮らし始めます。ここで磨かれた冶金技術はアナトリア半島全域に広がっていきます。中央部へ移動しハットウシャ都市国家をつくったのがハッティでした。カスピ海沿いに東へ移動した一派はアラル海へと流れ込むアムダリヤ川河口に行きソグド人と交わりました。

ウバイド人は黒海の北へ渡りスキティアを開発しました。ここに住み続けた人々は原住民と混交し農耕スキタイ、交易を主とするものは遊牧スキタイと呼ばれるようになります。富を蓄えたスキタイはクリミア地方で王族スキタイと呼ばれるようになります。
スキティアからダキアへトラキアへと鉱物資源を求めて移動する一派もありました。ヨーロッパへ広がる彼らはケルト人と呼ばれています。アイルランドではゲール、中央ヨーロッパではガリアと呼ばれる人々です。

フリギアのミダス王の出身地はブリゲスと言われていますが、ブリゲスはトラキアの一部でありスキタイの金鉱を開発した人々の手で黄金を手に入れた地域だと考えられます。ミダス王の”神話”がそのことを暗示していますね。ブリゲスとの混交によりスキタイとは親戚みたいな関係にあったと考えられます。
そして、トラキアのブリゲスからバーデン文化圏へと移動していきます。バーデンという場所は、バーデンバーデンとして世界遺産にもなっている温浴施設があるところです。温浴施設も、ウバイド人と深いかかわりがあります。中国に湯沐邑という場所があったのですが、どうやら、ウバイドが採掘した黄金を保管するための施設でもあったようで、王侯貴族たちのための病院や療養施設が併設されていたのです。次第にフランス中東部へと移動してブリゲスはブルゴーニュ人となっていきます。

西暦800年に始まった神聖ローマ帝国の皇帝不在となった時代に、7名の選帝侯による選挙で皇帝が決められることになり、傀儡として使えそうだとして白羽の矢が立ったのが、962年スイスアルザスのハビヒツブルグ城(大鷲城)に住む貧乏な伯爵にすぎなかったラートボト・ハプスブルグ伯爵の7世孫であるルドルフ1世でありました。しかし7選帝侯の思惑をよそにルドルフは頑張り、反抗的だったボヘミア王オタカルを破り、ウィーンに拠点を移し700年続くハプスブルグ帝国が始まりました。
ルドルフ1世の6世孫マクシミリアン1世の時に「幸いなるオーストラリアよ。戦いは他の者に任せるがよい。汝、結婚せよ。」を家訓とし、実際に富国ブルゴーニュの王女マリアと結婚し、ブルゴーニュを手に入れたことで大きく領土を増やし栄華の足場としました。結婚同盟により後にスペインなど多くの国を手に入れていく強運のハプスブルグ家には、ブリゲスを祖地とし黄金タッチを持つミダス王の血が流れているようです。

ローマ帝国を打ち立てる壮大な計画

ウバイド人は移動しながら現地人と混交したので、多くの資料は残されていないとされていますが、ときおり歴史の中でその姿を現します。たとえば前項に述べたヒッタイト王国の興亡史を見るにつけ、解明されない不思議なことが出てきます。海の民にやられたというのですが、海の民はそのタイミングでなぜ暴れ、その後どこへ行ったのか。ヒッタイト王はどうなったのか。ヒッタイトの人々はどこへ行ったのでしょうか。
フリギア王国はそれほど大きな犠牲を払うことなく黄金が出る土地に王国を築いたのですが、それこそが海の民の襲来目的だったのではないかと思えます。
海の民にそれをするメリットがあるとするならば莫大な報酬だったのではないでしょうか。つまり、海の民は傭兵として雇われたのです。
トロイア戦争を仕掛けてトロイアの王を倒しただけでなくギリシャの力をも解体し、海の民によりヒッタイトを追い出して、脅威がなくなったフリギアは王国をたてることができたのです。

ヒッタイトの最後の王シュッピルリウマ2世は、製鉄技術のフリー化を、身の安泰と交換条件にどこかの国へ逃がされているはずです。それとも初めからラテンの地から送られてきた「ヒッタイト王国取りつぶし計画」の潜入者だったか・・・。というのは妄想にすぎませんが、消息が分からない理由になりそうだと思えるのです。つまり、ローマ帝国を打ち立てるための体系の接合です。

ヒッタイト王国がローマ帝国に化ける トロイヤ戦争 海の民

いずれにせよ、製鉄技術を持ったスペシャリストであるヒッタイト人はあちこちで重宝されたと思われます。スキタイと交わりステップロードへ出たヒッタイト人は、森林限界地域でいくつかの小規模な製鉄炉を設けたようです。
フェニキア人たちと交わり船に乗ったヒッタイト人は、鉄鉱石の産地をめぐりフェニキア人が建てた植民都市で製鉄を行ったのです。かくして世界に鉄の時代が到来するのです。

東海路ルートをゆくフルリ王族、カッシート王族

フルリ人の根拠地はイランのレザーイエ湖付近のスバルとされます。アッシリアも別称スバルズと呼ばれるようにスバルを根拠地としています。フルリ人とアッシリア人は古い時代から歴史に痕跡をのこしています。紀元前7100年ごろハッスーナ文化を作ったのはアッシリア人で、フルリ人がハラフ文化を作ったのは紀元前6000年ごろと言われています。なので、先史時代の滅びた文明を除けば、コーカサス以南からメソポタミア北部、アナトリア地域に始めて文化をもたらした民族として名が挙がるのがフルリ人とアッシリア人です。

ウバイド人も正体不明ではありますが、彼らは何千年から何百年という単位で移動し一つの土地に執着しなかったのではないかとわかります。どんどん荒地を開発し、世界を耕していったように見えます。ウバイド人は黄金を採取するために常に移動していましたが、フルリ人やアッシリア人は古代オリエント文明に長らくかかわっています。

ミタンニ王国とエジプト第18王朝と殷王朝

フルリ人の王国とされるのはミタンニ王国(紀元前1500年頃ー1270年頃)です。アッシリアやウガリットを支配下に置き、エジプトやバビロニア、ヒッタイトと対立し、婚姻同盟を結びながら均衡を保っていました。エジプト第18王朝トトメス4世(紀元前1419年ー1386年)にアルタタマ1世(紀元前1410年ー1400年)の娘が嫁ぎ一度はヒッタイトからの侵略を退けたものの、紀元前1350年頃にヒッタイトのシュッピルリウマ1世の攻撃にミタンニ王は敗走します。その後同盟国のファラオ アクエンアテンが紀元前1334年に消えるとすぐ紀元前1333年にミタンニの2人の王が歴史から消えています。

消えたミタンニ王族がディルムンの港でアクエンアテンと合流し、船でペルシャ湾を行きインドのムージリスへ向かったという仮説をお話ししましたけれども、それをありありと想像させるほどできすぎた紀元前1333年の出来事です。カッシート王朝でも同じ紀元前1333年に消えた王が3人もいるなんてことが起きているなんて偶然ではありえないと思います。

そしてその”偶然”は東アジア、殷王朝にもありました。
紀元前1339年ー1334年 沃甲   紀元前1350年ー1334年 アクエンアテン
紀元前1334年ー1325年 祖丁   紀元前1334年ー1325年 トゥトゥアンクアメン(ツタンカーメン)
紀元前1325年ー1319年 南庚   紀元前1325年ー1320年 アイ(王妃ネフェルティティの叔父?フルリ人)

ちなみに、トゥトゥアンクアメンの後でファラオとなったアイの墓は王家の谷に見つかっています。トゥトゥアンクアメンは黄金マスクが有名なのですが、父王であるアクエンアテンのミイラについてはいまだに不明です。

エジプトファラオの行方についての物語。
エジプト18王朝アクエンアテン王と天孫ホアカリ

歴史年表の妖に見えかくれする地球の意志

このような年表を見ても、何か大きな事件、例えば「ファラオの一族を外国へ逃がす」というようなことが実際に起きたのではないかと思えてきます。
そのための舞台装置として、協力者となるミタンニ王国、カッシート王国、ディルムンやプントなどの海洋民族との関係、ひいてはミタンニ王国をつぶす役目のヒッタイト、カッシートにバビロンを治めさせるヒッタイトなど。役割を終えたかのようにヒッタイトは滅亡したというか、消えてなくなりました。大がかりすぎる歴史の、あやしい綾というものが見え隠れしています。

「誰がそんな大掛かりな計画すんの?」

時代でしょうか、神でしょうか、それとも地球の意志か。
時代の手足になったのはそれらすべてを結ぶ役目のウバイド人ではなかろうかと思えます。世界を股に掛けた海洋民族や、スキタイなどの騎馬遊牧民ももちろん時代の手足の一つなのでしょう。
時代が担いだ神輿に乗ったのはアクエンアテンで、このファラオは旧約聖書のモーセのモデルだといわれています。

モーセは、神からの啓示を受け世界で初めての唯一神信仰を推進し、神からの様々な言いつけに戸惑いながらも守ろうと努力する人です。
けれども、言いつけを守り切ることができなかったので自分自身はカナンに入ることはできませんでした。そして、竹内文書では「モーセは日本にやってきた」と伝えられているのです。

エジプトファラオが日本へやってきた

「日本へ帰還する神々」というテーマでまずは「天孫ホアカリがエジプト第18王朝のファラオだったら」どういう言う理由で、また、どんな経路で、いつ頃やってきたのかを知りたいと思い調べました。
次は天孫ニニギ族がどのような経路で日本へ帰還したのかを、洗い出します。

ヒッタイト王国がローマ帝国に化ける トロイヤ戦争 海の民
鉄と金と馬をもたらしたスキタイサカ族 月氏 匈奴
海のスキタイ島ケルト人、フェニキア人、エブス人ら文明を運ぶ海洋民族
エジプト18王朝アクエンアテン王と天孫ホアカリ

 

kagoスペースヒーラー

投稿者プロフィール

『新地球へ虹の橋をかけわが身を神社にする~18チャクラヒーリング』著者
スペースヒーラー、当サイトのスピ担当として体験したアストラルトリップ,
など投稿します

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