大陸の西と東をつなぐ仲介の役割を務めるのは、海では船を操る海洋民族であり、陸では騎馬民族が担いました。
ステップロード、アイアンロード、シルクロードなどと呼ばれる陸路を騎馬遊牧民が疾走します。
陸のスキタイ サカ族
遊牧民スキタイ族は、定説では紀元前8世紀から3世紀にかけてステップ地帯を駆け巡ったとされます。北の森林地帯と草原地帯の境目になる森林限界地域には、小規模の製鉄炉が見つかっていることで、この道がアイアンロードと呼ばれる所以になっています。日本の古い鉄器が北海道や東北地方で多く見つかっていることから、アイアンロードを通って北から入っていたのではないかという説があります。日本のたたら製鉄は、北方ユーラシア地域のタタールから伝えられたともされています。ヒッタイトの炭を使った製鉄技術がスキタイ族などの遊牧民に伝わりアイアンロードを通って日本にもたらされたのかもしれません。
スキタイ族は小惑星の名にもなっているスキティアという地域が根拠地となります。首都をクリミア半島に置く王族スキタイ、農耕スキタイ、遊牧スキタイに分かれて黒海の北方を拠点としていました。ギリシャの神ヘラクレスを祖神とし、始祖は末子相続でした。この土地には金鉱があり、王の黄金の衣装などが有名です。この土地にははじめギリシャ系のキンメリア人が住んでいたようですが、追い出してスキタイの地としました。首狩りや敵の頭蓋骨に金箔をはり酒を飲むなどの習慣があったようです。
コーカサス山脈を超えてミタンニ王国(紀元前1500年ぐらいー1270年)やリディア王国メルムナス朝(紀元前716年ー547年)を攻撃し、アッシリア王エサルハドンの王女とスキタイ王バルタティア(紀元前679ー658年)と婚姻関係を結ぶなどして同盟を結ぶと、息子マディウス(紀元前658年ー625年)の時代にはメディア王国を破り28年間中央アジアを治めました。しかし、治めるというよりは献上させるというやり方であり、国は荒れ国民の反感を買ったこともあり、再びメディア王国により駆逐されました。ステップ地帯を牛耳り、交易や技術交流などを担いました。定住した人々は金属加工などを提供しています。スキタイと合流したヒッタイト人による、炭を使った製鉄技術が中央アジアへ広まりました。
アケメネス朝の碑文によればスキタイサカ族には三種類あり一つはサカ・ティグラハウダー(とんがり帽子、キルギス付近)、サカ・ハウマバルガー(薬草酒を飲む、黄河上流にいた賽)で、この二つは陸のスキタイです。もう一つサカ・ティヤイー(海のかなた、カスピ海・黒海の向こうにいる)があります。ペルシャ人にとってスキタイとサカ族は混然一体のものとなっていることがわかります。
スキタイサカ・ティグラハウダーはバクトリアを拠点としていましたが、アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年ー330年)の支配下にはいりスメルディス王子(紀元前521年)がサトラップ(総督)に就任しています。スメルディスは父キュロス2世の死後、兄がエジプト攻めを行っている間に反乱を起こし2年程ペルシャ王であり同時にエジプト王ファラオの名を冠しています。この反乱には、バクトリアを知り尽くしていたスキタイサカ族が大いに絡んでいたでしょう。サカ族の立場に立つならば、元エラム王国のスサとアンシャンの王とペルシャ王とメディア王族の血を引く王子を神輿に乗せないはずがない・・・。シュメール地域の名を冠するスメルディス王子は兄の指金で殺されたとされていますが、サカ族を左右に、生きて東方に行ったはずです。
サカ族のいるところが月氏族と重なっているのは面白いことです。月氏族とスキタイサカ族は祖神を一にする親戚だったのではないかと考えられます。
月氏国は黄河上流域の遊牧民であり、匈奴に押されて中央アジアを西南へ追いやられたあと大月氏国(紀元前180年ごろ)になっていきます。月氏国が南下したことでそこにいた賽(そく、サカ族)の一部は南下してインドに入り、早くからインド入りしていた一部のサカ族と合流します。彼らはシャーキヤ族(釈迦族)と呼ばれ紀元前6世紀ー7世紀ごろにはガンジス川上流に小国を築きました。
月氏
月氏とは東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族です。根拠地は玉龍カシュガル河で、月神を祖とする月氏族の一部は黄河上流域へ広がり、一部はメソポタミアの地へと移動したようで、傭兵や農業労働者として紀元前18世紀のバビロニア第一王朝の地に入っていました。彼らがメソポタミアに入る前はザクロス山脈にいたようです。山岳系遊牧民だったのです。彼らはカッシートと呼ばれバビロン第三王朝(紀元前1475年頃ー1155年)を築きます。王朝を築くとき、ヒッタイト王国により北方からバビロンが征服されました。しかし、ヒッタイト国内紛争などもあり、同盟国であるカッシートにバビロンの統治を譲る形でヒッタイトは本国へ帰還しました。ちなみにヒッタイトの月神はカスクーといい、フルリ人の月神をカッシュといいます。
カッシート朝の時代、エジプトやアッシリアなど他の有力国との政略結婚がしばしば行われ、またバビロニア地域は交易の中心として長く繁栄しました。カッシートの王は当時のエジプト、ハッティ、ミタンニ、アッシリアの君主と同等であり、彼らと外交関係を維持していました。ブルーナ・ブリアシュ 2 世 (紀元前 1359年頃 – 1333年) は、娘の 1 人をファラオ アクエンアテンと結婚させ、もう 1 人をヒッタイト王スピリウマ 2 世と結婚させました。 王自身はアッシリアの王アッシュールの娘と結婚しました。 エラム人の王子と結婚したカッシートの王女もいました。バビロニアの歴史上比較的安定した時代と言われているこの時代から、バビロニアの人々はカルデア人と呼ばれるようになりました。。カッシート語はフルリ・ウラルトゥ語族に数えられることが多いそうで、もともとミタンニやウラルトゥと同根であることを匂わせます。
カッシートは海の民ディルムン族を攻略し彼らの根拠地バーレーン島を獲得しています。地中海のレバントなどと長距離交易が発達しました。西の隣国(エジプト、シリア、アナトリア)との同盟からバビロンへの大量の金の流入をもたらし、それによってメソポタミア史上初めて、価格が銀ではなく金本位制に基づくことを可能にしました。ラピスラズリはアフガニスタンから輸入され、ニップルの文書にあるように、カッシート人の専門であったと思われる馬の繁殖ですが、基本的には山岳地帯の根拠地から輸入されていました。
カッシート自身の神々よりもバビロンやシュメールの神々を優先したようです。カッシート人の王たちは、バビロン南部パレオヴィロニア時代末期のニップル、ウル、ウルク、エリドゥなどのいくつかの主要な遺跡が放棄された後に、さびれていた神々と神殿の保護をしてバビロニア王としての祭祀を再開し、宗教活動の正常な機能を回復する上で重要な役割を果たしました。
エジプトアマルナ時代のカッシート王が3人同じ紀元前1333年に消されてから跡を継いだクリガルズ2世(紀元前1333年ー1308年)はアッシリアにより王座を後見された王なのですが、最終的には三代を経てアッシリアに敗れ、エラムに敗北してマルドゥク像やハムラビ法典他バビロニアの財宝を奪われてカッシート王朝は滅亡します。一部のカッシート人はバビロンに残り後の政府高官に就いたものもありましたが、多くは本拠地へと帰還したのではないかと考えられます。そして祖地の月氏族と合流して月氏国を紀元前3~4世紀ごろ作ったということでしょうか。もしくは、スキタイサカ族と呼ばれた一派もあったのでしょう。
月氏国が匈奴に押されて、中央アジアを西南へ追いやられたあと大月氏国(紀元前180年ごろ)と小月国に分かれます。月氏国が南下したことで賽(そく、サカ族)は南下してバクトリアに移動したという記述があります。月氏とサカ族の一部は、アケメネス朝王族つまりスサの王族を担ぎ北へ移動し、濊(わい)と呼ばれたのかもしれません。シルクロードを通りウラルトゥから東へ移住した伯族と合流して、漢の時代には濊伯(わいばく)と呼ばれるようになります。
匈奴
中央アジアからステップ地帯にかけて紀元前5世紀から12世紀にわたり国を築きました。匈奴は紀元前4世紀から滅亡する93年までモンゴル高原を中心とし東アジアのステップ地帯で強大な勢力を持ちました。
君主号は単于(ぜんう)といい、単于の手紙があればステップロードを安全に渡ってゆくことができたといいます。
殷周の初めに犬やラクダ、馬、白玉、良弓を貢献したという記述があります。出土品からスキタイとの交易があったことが分っています。
匈奴が滅びると、国号を前趙(ぜんちょう)としたが配下による後趙に滅ぼされてしまいます。北魏に仕えていた独孤部は重要な役職に就くようになり、北朝・隋唐時代における名門貴族、劉氏、独孤氏となっていきました。また新羅王族金氏は匈奴からの渡来であるという説もあります。金氏は後の758年武蔵国、現在の新座市に移住したとされます。
ヒッタイト王国がローマ帝国に化ける トロイヤ戦争 海の民
鉄と金と馬をもたらしたスキタイサカ族 月氏 匈奴
海のスキタイ島ケルト人、フェニキア人、エブス人ら文明を運ぶ海洋民族
モーセのモデル エジプト18王朝アクエンアテン王の日本帰還
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