海のスキタイ島ケルト人、フェニキア人、エブス人ら文明を運ぶ海洋民族




世界史が大変動を起こすとき、民族の移動が少なからず関係しているのがわかります。
古代民族が移動するルートは大きく分けて陸路と海路の二つに分かれますが、海路を移動する民族とルートはどうなっているのでしょうか。
最終氷期が終わり、1万年ほど前から次第に海面が高くなり、海に沈む島や陸が増えてきました。北極海航路は、東・東南アジアの海の民により開かれたようです。さらに紀元前5300年頃に起きる鬼界カルデラの噴火により日本の西半分には人が住めなくなってしまい、日本にいた人たちは大陸や遠い世界へ移動したようです。それからさらに4000年ぐらいが過ぎると再び東へ、日本への移動(帰還)が本格的に始まります。

海のスキタイ 島ケルト人

西アジアから東アジアへの移動は陸路だけでなく海路ルートもありました。海上翡翠ロードと呼ばれたり、海のシルクロードとも呼ばれる、インドネシアからインド洋、アラビア海、ペルシャ湾や紅海、地中海を結ぶ交易路が古くからありました。

スキタイ族の祖は箱舟のノアの息子ヤペテとされます。スキタイ王であったフェニウス・ファルサイドはバベルの塔を建てた72人の王の一人で、孫のゴイーデルグラスを、ゲール語を作った人物としています。つまり、ゲール人の祖はフェニウス・ファルサイドということです。ゴイーデルはエジプトファラオの王女コスタを母に持ちエジプトに住んでいましたが、モーセによる出エジプトの時に同時にエジプトを出てスキティアに帰り定住したということです。その後彼の子孫は440年間地球上を放浪します。

紀元前800年ごろスキタイの覇権争いに勝利したミル一派は、黒海から地中海へ抜けて海路イベリア半島のヒスパニアを征服します。ミル一派は、イベリアケルトの土地から川を使って錫、金、銅をタルッソス港に運び、地中海を駆け巡っていたフェニキア人との貿易で大変繁栄したといいます。聖書にもタルシシの名で登場しますが、フェニキア人はその場所を秘密にしていたようです。

海のスキタイ族であるミル族はその後、アイルランドに入り、そこを治めていたダーナ族を破って島のケルト人となり今に至ります。なので、海のスキタイ族を今後は島ケルト人とします。彼らは当時最大級の商船であるタルシシ船を操り、良い貿易相手であったフェニキア人と協働して世界航海に出ていきます。ソロモンのタルシシ船は、おそらくはタルッソスの船を、フェニキア人を介して購入したのだろうと考えられます。

航海術と交易上手のフェニキア人

フェニキアとはギリシャ語で、ラテン語ではポエニと呼ばれる民族です。彼ら自身はゲバルと呼んでおり、バアル神を祀っていました。鉄器時代初期からレバノンのティルス、ビブロスほか地中海沿岸に多くの植民都市を持ち、北アフリカのカルタゴに移住した西地中海のセム族です。紀元前30世紀初頭からエジプトの植民都市として、レバノン杉をエジプトへと輸出し、代わりにパピルスを輸入していました。フェニキア人の根拠地ビブロスの語源はパピルスだそうです。そしてバイブル(聖書)という言葉はこの都市の名が由来だそうです。

この頃から海洋交易民族としてのキャリアを始めました。紀元前2500年ごろベイルート、ティルスが成立し、紀元前1200年ごろにはユティカ、リクサス、ガディール、アルヴァド、ベリトゥス、エクロン、シドンなども植民都市として独立を果たしました。こうした植民都市は侵略的な方法ではなく、土地の使用代を支払って成立していたようです。ヒラム王(紀元前969年ー936年)のとき、陸から離れた島を首都とし、地中海で最大級の都市となっていました。ヒラム王の船員は、サウル王(紀元前1021年ー1000年)によって統一されたイスラエルの王ソロモン(紀元前971年ー931年)と同盟し、タルシシ船を使ってはるか東アジアまで航海したとされます。

タルシシ船はレバノン杉でできており、くぎを使っていないので解体して陸を移動し別の海に浮かべることもできたそうです。操舵技術に長けたフェニキア人と大型帆船であるタルシシ船の組み合わせにより遠洋航海が可能になったのです。アナトリアのタルシスは、スキタイの湊だったようで、レバノン杉を使ったタルシシ船を製造し地中海に送り出していたと考えられます。海のスキタイ、島ケルト人はフェニキア人とともに西地中海へ移動しイベリア半島に本拠地を置くようになっていき、海軍を備えた商船の機能はますます向上していったのです。

フェニキア人は紀元前9世紀ごろに北アフリカにカルタゴを建設しましたが、8世紀ごろアッシリアの勢力拡大により東地中海方面の力を失っていきます。アッシュルバニパルの死後は新バビロニアに紀元前586年に服属することになります。このような経緯から次第にカルタゴがフェニキアの本拠地となっていきました。北アフリカには他にもアウザ、キティオンを植民都市としました。カルタゴは、マケドニアの後台頭してきたローマ帝国と争うようになり、三回に渡るポエニ戦争によりフェニキア人は紀元前146年にはカルタゴを去ることになりました。

フェニキア人は交易で必要なフェニキア文字を発明し、それはアルファベットの原型になりました。北西アフリカ、現在のアルジェリア、モロッコ、チュニジア、リビアに定住し、イベリア南部、サルデーニャ、シチリア島、エブスス、マルタ、その他西地中海の小さな島々にいくつかの植民地を設立しました。 サルデーニャ島とシチリア島は、独立した原住民と経済的、政治的に強い結びつきを持っていました。彼らの海軍の存在と貿易は、地中海全域、イベリア大西洋、イギリス諸島、カナリア諸島にまで広がり、ゲール人を通してケルトとのつながりも築きました。カルタゴにおけるフェニキアの技術的成果には、無色ガラスの開発があります。またフェニキア人が持つロイヤルパープルの染料技術は、今でも再現が簡単ではなく、当時は金の50倍もの高価で取引が行われていたようです。

この染料技術は、南米コスタリカやメキシコに伝わっています。また、フェニキア人が持っていたとされるE遺伝子の元となるDE系統の遺伝子を沖縄人高校生の33%ほどが持っているところから、環太平洋地域から航海し移住したことを匂わせています。

紀元前6500年ごろの九州古代遺跡にフェニキア人やケルト人が刻んだと考えられるバアル神やスワスチカのペトログリフがいくつも見つかっています。これはカルタゴが滅びるずっと以前であり、ビブロスのフェニキア人よりも古い年代に当たります。ペトログリフ研究者によればもともと日本にいた海洋民が鬼界カルデラ後に北極海航路でスカンジナビアや地中海へたどり着いた人々なのではないかとしています。紀元前4300年頃からヨーロッパに発生したファンネルビーカー文化が、外から持ち込まれた土器を持っているところから、東アジアの海洋民族が移住して土器づくり技術を持ち込んだと考えられるからです。大陸に移住したものもあれば海を捨てずにイギリスの島々や地中海奥深くにたどり着いて定住したものもあったことでしょう。現地の人々と混交しながら現地の風土を身に入れてフェニキア人になっていったのではないでしょうか。

フェニキア人は後にインドネシアにタルマヌガラ王国(耶婆提国358-723)をつくり、バンコクのチャンパ王国(192年ー1832年)を作り、燕を建国し、伽耶、阿羅国、百済のもととなったとする鹿島昇説があります。植民都市造りに長けた民族なのです。

エブス人

もう一つ、古代日本に大きな影響力を持った海洋民族としてエブス人がいます。エブス人は聖書によりハム族に分類されています。
発祥は15000年以上前の東南アジアと言われています。オーストロネシア語族の島々には先史時代の古い文明があります。それらの人々は島々を渡るため同時代の先進的な海洋技術を持っていたとされます。

『ホツマツタヱ』によれば、船魂六神という海神族があります。第一にシマツヒコです。筏に竿さして河を行く筏船のもとを作ったそうです。その名の通り島々の集まるところにいる、オーストロネシア語を話す島々やベトナム・タイの神だったのかもしれません。第二にその息子のオキツヒコがいます。鴨が足ヒレで泳ぐのを見て櫂を発明し、その船は鴨船と名づけられました。櫂を使うので流れに対抗する機動力があり後には軍用船になっていきました。「オキツ」だけに河を出て海原へ漕ぎ出し沖縄周辺を拠点にしていたのかもしれません。第三はその息子のシガといい、帆をつけてモーンスーンと海流を使って遠くまで高速で行くワニ船を発明したということです。急用のときや遠洋航海に向いています。シガの痕跡は日本各所に残っています。和珥族の始めです。そして第四はシマツヒコの7世孫にあたるカナサキで、亀船を発明しました。妊婦である皇后トヨタマヒメが使った御用船であり、比較的大人数で、積み荷もたくさん乗せられたのでしょう。商船として東アジアと西アジア・エジプトなどの国々の交易を支えたタルシシ船のような船になっていったと考えられます。途中海賊に襲われても対抗できるよう、軍隊も乗せていました。カナサキとは後に住吉大神と称えられる神です。航海を守る神として、あるいは商売の神として今も崇敬を受けています。

海洋民とは日本でいうならば船魂とか海神族に当たると考えられますが、原エブス人はオキツヒコ、あるいはシガ、つまりはカナサキの遠い子孫だったと考えられます。カナサキは、イザナキ・イザナミの子ヒルコを拾って廣田神社で育てたとされます。ヒルコといえば蛭子神と習合する神です。

「エブス人がカタマランで海に出て遭難し、黒潮に流されて日本に流れ着いたのをカナサキが拾い上げて海神族として育てた」という物語が見えてきます。カナサキの亀船は大量の物品を輸送するのに適しており、遠洋航海にたえる性能を備えればエブスの故郷であるメラネシアからインドへ、アラビアへと向かう海路が見えてきます。そうしてエブス人達はインド洋、アラビア海を超え紅海から地中海に出て、紀元前1500年ごろ現在のレバノン アルワドに住みつきます。聖書で名づけられる以前からエブス人はパレスチナの地にいたのですね。アルワドでエブス人はフェニキア人などと交わり造船技術を磨いていきました。海のスキタイ・ミル族との協働によりタルシシ船団を作り上げていったのです。当時のエブス人の拠点はエルサレムでした。

紀元前1200年代ごろ地中海に現れた海の民の侵攻により、ヒッタイト王国は滅亡し、海の民の一つであったペリシテ人はヒッタイト人と一緒に鉄文化を取り込みました。フェニキア人もこの時解体されましたが、海洋民同士ペリシテ人とも技術連携関係をつくったようです。こうして一部のエブス人、ヒッタイト人、フェニキア人、ケルト人、ペリシテ人らで作るより強固なタルシシ船団を作り上げたと考えられます。

エブス人が持つ東アジアへの航路・遠洋航海術、ミル族のタルシシ船・金、フェニキア人の交流・語学、ヒッタイトの製鉄技術と各地の交易品をもって東アジアへ往復3年かけて航海したといいます。

紀元前15世紀、九州の国東半島にタルシシ船団が上陸し、製鉄基地を築いたという鹿島説があります。鉄鉱石を運び込み鉄製品に加工し、殷王朝へと鉄文化を輸出したといいます。紀元前13世紀ごろには東表国(豊日国、秦王国)をエブス人のタルシシ船長であるクルタシロスが王となって建てたとしています。

『ホツマツタヱ』によれば国東半島付近はツクヨミの誕生地となっています。やがて伊予・阿波二名の地が治まらないのでツクヨミが行き気噴を上げたので四国を治めるようになったとあります。ツクヨミの時代にはシマツヒコの子孫ムナカタが筑紫を治めていました。ムナカタの下で三女神が育てられたので宗像三女神と呼ばれたのです。その後、ツクヨミの子孫であるウサツヒコが宇佐を拠点にしました。ウサツヒコはタケヒト(神武天皇)東征の際にみあえ為してもてなしたと伝わっています。
『隋書』倭国伝にある秦王国は1000年続いた王国とされており、タケヒトの時代にはすでに存在していた可能性もあります。つまり、饗宴為したウサツヒコ(宇佐の王)がクルタシロスの末裔であったとしたら、そして彼がエブス人と月氏との混血(インド ロータスで交差)であるならばクルタシロス=ウサツヒコとなり筋が通ります。

紀元前1000年ごろイスラエル王国が立つとエブス人の一部はエルサレム(シオン)に住み続けてユダヤのベニヤミン族とともにありました。ソロモン王とシバの女王との結婚により紅海交易権・通行権を一手に握り「ソロモンのタルシシ船」は東アジアへ進出し広い世界への交易路を手に入れました。そこからタルシシ船はイスラエル色の強い船となったのです。

イスラエルの建国で行き場を失くしたエブス人の一部はタルシシ船団チームとしてインダス川の支流ジェラム川の上流にあるロータスへと移り住みます。この地域はカシミールと呼ばれる土地です。月氏(カッシ)と海のスキタイ・ミル族(島ケルト人)を合わせた名であり、関係をうかがわせます。タルシシ船団チームと月氏、サカ族がここで交差します。

紀元前2500年ごろバビロンからやってきたドラヴィダ族が中心となって築いたインダス文明は、アーリア人の侵入により紀元前1500年ごろ節目を迎え、ロータスの地もヴェーダを生き方の指針として多民族が共存する時代でありました。同時にインドで鉄器使用が始まります。タルシシ船団チームは金のほか鉄鉱石の産地を探し、各地に製造地を作っていきました。鉄鉱石の産地を擁するマガタ国もその一つです。島ケルト人、フェニキア人、エブス人、ヒッタイト人、そして稲作を得意とする民族らが続々と日本へ戻ってきて小王国を築いていったという流れです。

ヒッタイト王国がローマ帝国に化ける トロイヤ戦争 海の民
鉄と金と馬をもたらしたスキタイサカ族 月氏 匈奴
海のスキタイ島ケルト人、フェニキア人、エブス人ら文明を運ぶ海洋民族
モーセのモデル エジプト18王朝アクエンアテン王の日本帰還

 

kagoスペースヒーラー

投稿者プロフィール

『新地球へ虹の橋をかけわが身を神社にする~18チャクラヒーリング』著者
スペースヒーラー、当サイトのスピ担当として体験したアストラルトリップ,
など投稿します

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