「7300年前の鬼界カルデラ噴火で、西日本に人が住めるようになるまで約1000年を要した。」
「日本から脱出した神々の子孫が世界へ散っていき、再び日本へ帰還した。」
「天孫ホアカリ族はエジプトから帰還した。」
という説を辿ってきました。
では、ホアカリの弟とされる天孫ニニギの子孫は、アメミオヤノカミから三種神器を授かって八州巡りを始めています。どのような経路で、どのような方法で、いつ日本へ帰還したのでしょうか。
アララト山に降臨した天津神
『宮下文書』という古文書が、原書は紛失してしまったもののいくつかの書籍になって残っているそうです。
これらを富士文献として調査研究されている加茂氏の説では、災害後の人類の歴史が始まったのは9000年前のアララト山だとされています。
神々はここに2672年間いて、6400年前に子孫の一人であるタカミムスビの7人の子がそれぞれ世界に散っていきました。
富士山麓にやってきたのがクニトコタチ、クニサツチと父タカミムスビでありました。そこから日本の文明が始まり、第四神朝時代にアマテルやツクヨミの名が登場するという流れです。この時代は「富士王朝」と言われています。
天孫ニニギの概要
同じ富士王朝時代が書かれているという『ホツマツタヱ』を参考に、ニニギの物語を辿りたいと思います。
ニニギはオシホミミを父に、タクハタチチ姫を母に、ホアカリを兄に持ち、兄弟や親と別れてアマテルの下で養育され、自分が開発した灌漑農業を引っ提げて八州をめぐったということです。その時ニニギは三種の神器を授かり、タチカラオやアメノウズメなどを含めた団体を引き連れて「葦原の中つ国」に降臨するのですが、途中でサルタヒコに出会ったり、越のシラヤマ姫に山を登るときに平衡を保つ輿の話を聞いたり、甜瓜を食べたりしながら富士の麓で出会ったコノハナサクヤ姫と結婚します。コノハナサクヤ姫は三人の子を産み、ニニギはあちこちに呼ばれて灌漑農業を教えて回り、最後はタカチホの嶺で神上がったということです。
ニニギはクニトコタチの生まれ変わりとも称される逸の神であり、雷を「火」と「水」に分解して活用する方法を編み出したので別雷神(わけいかづちのかみ)とも讃えられた天才科学者でもありました。
父のオシホミミが三種神器を継承した後、ニニギが三種神器を引き継ぎ旅に出ます。
灌漑農業の伝播
稲作には、肥沃な土壌と太陽、水が欠かせません。ナイル川をもち、毎年大洪水に見舞われたエジプトには農業に適したすべての条件が整っていました。
メソポタミアではチグリス川とユーフラテス川に恵まれてはいましたが、乾燥地帯でほとんど雨が降らないために、川から水を呼び込む灌漑農業が発展したのです。逆に日本や東南アジアでは、高温多湿で雨がよく降るので自然農法でも作物は育ったのです。
ニニギが最初に降り立ったのはメソポタミアの地でありました。
ウバイド文化の大きな特徴は、川の近くで周囲に土木工事を行うことでした。紀元前5500年ごろからエリドゥ、テルアルウバイドなどを開拓していきます。ウバイド人は砂金を採取するために河口付近を灌漑を行いました。
ニニギはウバイド人が灌漑したところから農業を推進したので、人口が増えやがて都市国家を作っていったのです。ウル、ウルクなどの都市が発展しました。
ニニギ族は、灌漑農業をメソポタミア地域の人々に教えて各地をめぐっり、北へと遡上していきました。
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紀元前6000年ごろから アマテル、オシホミミの「高天原の世」
アララト山麓をアマテル、オシホミミ、天孫族の根拠地としていました。
実際、アララト山からヴァン湖、レザーイエ湖スバル地域にかけて居住していたのがフルリ人らで、後にミタンニ王国やウラルトゥ王国などを建てます。
旧約聖書では分類不能なフルリ人の根拠地はスバルという地域で、紀元前6000年ごろにいたのがテルハラフという都市です。紀元前5000年ごろになると、このテルハラフにウバイド人が入ったことがわかっています。
ウバイド人は灌漑工事をする道具のために、金属を加工する冶金技術も発展させていました。テルハラフからカスピ海西側に移動して、紀元前4500年ごろのレイラテペ文化を残しています。彼らは鉱物を求めてコーカサス山脈の西や南側に紀元前3600年ぐらいから金銀加工品の多いマイコープ文化、環状列石やワインを醸造が盛んなクラ・アラクセス文化立ち上げに貢献します。彼らの中の一派が、鉱物資源豊かなアナトリア中央部へ移動し、製鉄技術を進化させたヒッタイト王国になっていき、別の一派は北へと移動しヤムナ文化の担い手となります。そしてスキタイ族と呼ばれるようになっていきます。
ニニギ族が開いたラガッシュ(紀元前2550年ー2113年)
ニンギルス(ニニギ)を都市神としてまつるギルスなどの都市の集合体としてのラガッシュ王国は紀元前2550年ごろからはじまります。ギルスでは紀元前4000年ごろのウバイド四世の陶器などが見つかっています。そして運河の造成を進めていました。
海が高かった時期にラガッシュはペルシャ湾沿岸であり、ディルムン族との交易記録が残っています。
ラガッシュ第二王朝のグディ王の石碑によれば、遠く離れた領域と広範な商業通信を行っていたことがわかります。グデアは軍隊が東のエラムで戦闘を行っている間、シリアのアマヌス山脈とレバノン山脈から杉を調達し、アラビア東部から閃緑岩を、アラビア中南部とシナイ半島から銅と金を得ていました。シュメールに砂金やカーネリアンなどを売りに来たメルハン族や、別の碑文ではマガン、メルハ、エラム、アムルの領土に対する勝利について書かれています。交易はインドまで広がっていたようです。
ラガッシュ第二王朝最後の王ナンマハニは、ウルの軍事司令官であったウル・ナンムにより滅亡します。
富士文献を参考にすると、ニニギが神上がりした後に後継者争いが起きたとあります。高天原を統治するのは海幸彦と山幸彦の争いで勝利した山幸彦のホヲテミでした。ホヲテミが三種神器を引き継ぎ、一方九州の王朝を「宇家ヤ不ニ合須の世」としたとあります。
ニニギを継いだホヲテミ ウル第三王朝(紀元前2113年ー2004年)
ウル第三王朝を建てたシュメール人のウル・ナンムも引き続き神殿建築や運河の建設を行いました。ウル・ナンムはウル市長であり軍事司令官で、前王の娘を娶ることで王位に就きました。しかし、セム族のアラム人や、エラム人の侵入に悩まされました。最後の王、イビ・シンはエラム人によってはるか東方へ連れ去られたとされています。
富士文献では時代が前後しますが、朝鮮半島からタカミムスビのひ孫にあたるタカオウと言う神が高天原に攻め込んで来たといいます。 タカオウはさんざんの悪さをしたためアマテルは岩戸に隠れてしまいました。タチカラオによって捕らえられたタカオウは「私には悪意は無い、高天原の繁栄を羨ましく思い、つい悪さをしてしまった。 今は反省しているので助けてほしい」と弁明し、互いが祖神を一緒にすることがわかって和解し「スサノオ」と名づけられたとあります。
スサノオとはエラムの首都「スサ」の王であるとすれば、ウル第三王朝を潰したエラム人とはスサノオであるということになります。エラムという国は紀元前3200年ごろからハルタミと名乗る人々が暮らしており、栄枯盛衰を繰り返しながらも、紀元前6世紀まで続く由緒の古い王国です。彼らもまた日本へ帰ってくる時が来ます。
イビ・シンはディルムン族やその先にいるマガン族らとともにインドへ行き、そこからインドネシアを抜けて遥々日本までたどり着いて、過去の文明の跡である巨石を発見し、そこで自分たちの祭祀を上書きして行った説もあります。そうすると紀元前20世紀ごろには王統は東方面へ移ったのかと思いきや、三種神器はウガヤフキアエズ王朝に引き継がれたのですね。ウガリット王国をはじめミタンニ王国、イスラエル王国、ウラルトゥ王国、扶余へと王位はつながっていきます。
ホヲテミの兄ホスセリからのウガヤフキアエズの世
ウガヤフキアエズ朝については、『ウエツフミ』では74代、『竹内文書』では72代、富士文献で51代続いた王朝とされており、73代目としてイワレヒコの名があります。『ホツマツタヱ』『古事記』『日本書紀』では神武天皇の父として鵜葺草葺不合命が存在するとしています。『竹内文書』では文明の始まりの地日本から派遣された神々(王)が16の地域に分かれて各地を統治し、再び日本へ集結するという竹内史観を展開しています。いずれにせよ、ウガヤフキアエズは大和王朝を建国した神武天皇につながる王の系譜です。
アララト山麓から展開した天神族の山幸彦族はラガッシュやウル第三王朝に栄え、海幸彦族が支えるウガヤフキアエズ朝として歴史を紡いでいったということができます。
ウガリット王国(紀元前1850年頃ー1180年)とフェニキア人
先代のホヲテミの指示があり、息子のウガヤは対外的な脅威の盾になるような地域(筑紫)に宮写しをしたことが、富士文献で読み取れます。
ウガヤフキアエズ王朝の始まりです。
ウガリット王国は東地中海地域(シリア・パテスチナ)の最北端に位置しており、フェニキア人と同様にアナトリアとメソポタミア、地中海地域、エジプトをつなぐ文化的にも政治的にも重要な中継地でありました。西セム系アモリ人の都市国家として紀元前30世紀後半から繁栄し、紀元前18世紀ごろにはフルリ人も合流しました。ビブロスの紀元前3200年ごろにバアラットゲバル神殿を築いたのはギリシャ人からフェニキア人と呼ばれた人々です。彼らはビブロスに紀元前8800年ごろから居住していたゲバル人で、後に地中海の各地に植民都市を築き、ヒラム王の時代には紅海からの東洋への海路通行権を独占していたソロモン王と結託して東アジアへ航海をした民族です。同じ海洋民族であり、アラム人とフルリ人が混血していったウガリット王国の滅亡後にはフェニキアに入った人々もいたことでしょう。
ウガリットでは紀元前20世紀後半のエジプトからの交易品であるカーネリアンが見つかっており、紀元前16世紀ごろには政治・文化・軍事的にエジプトの影響を強く受けており、エジプト人の駐屯兵がこの都市を守っていたようです。アジア世界と地中海を抑える要所であるためエジプトの植民都市となっていたようです。
エジプトとは運命共同体であり、エジプトがシリア・パレスチナ方面からやってくるヒクソスの襲撃を受けた時代には、ウガリットにあるエジプト風の記念碑などが破壊されました。
しかし、紀元前13世紀の初め頃にエジプトとヒッタイトがシリアの覇権をめぐって争いが起きると、ウガリットはヒッタイト側につきました。地続きのお隣さんからの脅威には勝てんということでしょうか。ところが、海の民の侵攻とともにヒッタイト王国が終焉を迎えると同時にウガリット王の行方も分からなくなります。ヒッタイト王のシュッピルリウマ2世に関してはローマの地へ逃れた物語を展開しました。
ウガリット王はどこへ?
紀元前1349年以前 アンミスタムル1世 (4)
紀元前1349年ー1315年 ニクマドゥ2世(ヒッタイトの臣下)
紀元前1315年ー1313年 アルハルバ(ヒッタイト人、弟に追放される)
紀元前1313年ー1270年 ニクメパ(アルハルバの弟)
紀元前1180 滅亡
紀元前1500年ごろ建国されたミタンニ王国の、同時代の王の在位は以下です。
紀元前1380年ー1350年 トュシュラッタ(娘はアクエンアテンの妻ネフェルティティとされる)
紀元前14世紀後半 アルタタマ2世(フルリ人で、ヒッタイトと国境を決め条約を結んでその支援で王位に就く)
紀元前1365年ー1333年 シュッタルナ3世(アルタタマに反抗しアッシリアとの同盟を模索しヒッタイトから独立。しかしヒッタイトに追われる)
紀元前1350年ー1320年 シャッティワザ(トゥシュラッタの弟。ヒッタイトの庇護で即位)
紀元前1270年 滅亡(10)
以上の年表を見る限り、ウガリット王アンミスタムル1世は、ミタンニ王トゥシュラッタその人ではないかと思えてきます。どちらの王国も、同時期にヒッタイトの息がかかった人物か、あるいはヒッタイト人が王族にすり替わり王位に就いていると。
殺されたとされるトゥシュラッタ(アミンスタムル1世)ですが実際は生きていたのです。
紀元前1336年ごろエジプトに嫁いでいたネフェルティティはその娘たちとともに姿を消しています。シュッタルナ3世がトゥシュラッタを隠し、ネフェルティティ一団と合流したのではないか、と思うわけです。そして、ディルムン族の船でアクエンアテンらと合流し、マガン族の船でムージリスに行き、そこでアマツマラの船に乗り換え、日本へと向かったのです。アクエンアテンはシナイ山にて、十戒ならぬ十種神宝を得たということです。
ミタンニ王国(紀元前1500年ー1270年)
紀元前6000年ごろテルハラフを建てたフルリ人が、テルハラフのあるハブル川周辺のフルリ人を統一して紀元前1500年ごろ建てた国がミタンニ王国です。
常にヒッタイトやアッシリアの脅威にさらされていたミタンニ王国は6代目の王であるアルタタマ1世の娘をエジプト第18王朝のファラオトトメス4世に嫁がせて婚姻同盟を結びます。そして9代目の王トゥシュラッタの娘をアメンホテプ4世、つまり、アマルナ革)命を起こしたアクエンアテンに嫁がせます。
アマルナ革命はアクエンアテン1代で消滅し、ミタンニ王族は紀元前1333年に立て続けに消えています。そこからはヒッタイト王国の傀儡となりますが、そのヒッタイト王国も紀元前1178年に消滅すると、シロ・ヒッタイトとなっていきます。中東に残された三種神器は、シロ・ヒッタイトから生まれたウラルトゥ王国に引き継がれていきます。そこへ合流するのがイスラエル十支族の一部です。
ヘブライ王国・北イスラエル王国(紀元前1021年ー722年)
旧約聖書に記述される王国。
肥沃な土地エジプトを得ようとシリア方面からやってくるヒクソスの侵攻がエジプト第12王朝(紀元前1991年ー1782年)から始まり、第15王朝(1663年ー1555年)にはついにヒクソスの王朝が現れます。その2代目の王の誕生名はヤコブヘルといいます。ファラオのヤコブヘルはヘブライ人だったとされます。この時期に飢饉を経験していた多くのヘブライ人がエジプトに移住していました。
しかし、エジプト第15王朝は第18王朝に敗れてヒクソスの王朝は倒されます。その時からヘブライ人らヒクソスの民は奴隷となって過酷な生活を強いられるようになります。そんな中、第18王朝10代目のアメンホテプ4世によるアマルナ革命が起きます。紀元前1340年ごろのことです。
モーセは苦難にあえぐヘブライの民を救うために、神の啓示に従って紀元前1250年ごろに出エジプトを実行したということになっています。
ヘブライ人はなんとか神が与えたカナンの地へと到着するのですが、モーセは契約を破ったためにカナンの地を踏むことができず、ヨシュアが跡を継いでヘブライ人をカナンへと導きます。それから預言者サムエルの間までは選挙によって選出された人が指導者として立ちましたが、最初の世襲王としてサウルが王となりヘブライ王国が建国されます。
海の民から始まったカタストロフの影響でエジプトをはじめヒッタイト、アッシリア、バビロニアという大国がことごとく衰退し、小国が立ち始めた中でヘブライ王国も大国の干渉を受けることなく建設することができたようです。
二代目ダビデは、エブス人が居住していたエルサレムを奪い王都としました。エブス人は紀元前5000年ごろからパレスチナ地域に居住していた海洋民族です。
三代目ソロモンと続き、ヘブライ王国は繁栄しました。ソロモンは近隣の王国と婚姻同盟を積極的に結び、自らもシバの女王との結婚で紅海交易と海路の独占を実現し、東洋への海上交易権を一手に握りました。この時代フェニキアのヒラム王と運営する「ソロモンのタルシシ船」は世界最大、最強の商船で、遠洋航海を実現しました。タルシシ船はインドやインドネシア、中国、日本へも進出します。
ヘブライ王国は、ヨシュアによって導かれたヘブライ人ですが、ソロモンの晩年は妻たちの信仰を取り入れて偶像崇拝をしたといいます。ソロモンの死後国は混乱し、唯一神信仰と血脈の維持にこだわるユダ族、ベニアミン族のユダ王国と、他の十支族によるイスラエル王国に分かれていきます。分裂後イスラエル王国はアッシリアの猛威にさらされ続けます。ヤロブアム2世以降モラルの低下が著しく、王位の家臣による下剋上が相次いで政情不安が昂じます。紀元前740年代にアッシリア捕囚としてルベン族、ガド族、マナセ族らとイスラエルの2万7千人の民が強制連行されたうえ、サルゴン2世の時ついに首都サマリアは陥落し紀元前722年に滅亡します。アッシリアの政策によりサマリアには多くの異民族が流れ込みヘブライ人との混血が進みました。
四方向世界を統べる王国と誇った新アッシリア帝国は、新バビロニアにより紀元前609年に征服され、アッシリア捕囚となっていたイスラエルの民は歴史上の消息を絶ち、「失われた十支族」といわれるようになります。アッシリア滅亡後、逃れたイスラエルの民の一部は黒海北のクリミアに移動し、やがてステップロードの弓月国に入ったといわれています。そして、アッシリアと敵対して混乱していたウラルトゥ王国にも逃げ込み、混交していったのでしょう。
ウラルトゥ王国(紀元前858年ー590年)
アララト山の名でアッシリア人に呼ばれたフルリ人の国です。紀元前1180年ごろからのシロ・ヒッタイトの時代に三種神器を守り抜き王国を築きました。アラマというウラルトゥの初代の王は、「オリオン」の異名を持つハイクの五世孫ということです。アルメニア人の始祖ハイク・ナハペトで、ノアの子ヤペテのひ孫にあたります。アラマ王は、大変な美男子で美麗王アラと同一人物ともいわれています。
アラマ王と共同統治のような形になっていたルティプリ王がフルリに起源をもつとされています。次期王のサルドゥリ1世に王位を継承しています。ウラルトゥがアッシリアの碑文に登場するのは紀元前13世紀であり、ナイリ州の中の小国家ウルアトリとしてありました。アッシリア王の世代交代ごとに何度となく攻め込まれていましたが、アッシリアが紀元前9世紀前半に弱体期に入ると、ナイリの中でも強力であったアラメ王とルティプリ王により連合国家としてウラルトゥ王国が成立しました。
6代目のアルギシュティ1世のとき軍事力が最大となり強力な国家の一つとなりました。領土を広げる中でハッティなどから6600人の囚人が定住しました。
しかし、力を取り戻したアッシリアの脅威は復活し、北からはキンメリア人の侵入に悩まされました。そんな中、アッシリアとは紀元前705年に和平を結び50年間ほどは安泰を得ました。その後キンメリア人やスキタイ人度重なる侵入で弱体化していきます。サルドゥリ3世(紀元前645年-635年)は、アッシュルバニパル王を「父」と呼び次第にアッシリアに依存していきました。しかし、紀元前612年メディアのキアクサレズ王は、内戦により回復不能に陥っていたアッシリアを征服し、紀元前590年にはウラルトゥの首都ヴァンを占領し、ウラルトゥは主権を失くしました。
紀元前609年にバビロニアの侵攻によりアッシリア帝国は終焉を迎えます。アッシリア捕囚となっていた3万人近いイスラエル人は世界に散り散りに分かれていったとされていますが、その中の一部はウラルトゥに入ったと考えられます。
ウラルトゥ王国の継承はどこへ移動したのでしょうか。
ウラルトゥ王国はシルクロードを抑えていたので、そのルートを辿って朝鮮半島の北方位にある夫余を建国したという説があります。
メディア王国に滅ぼされたウラルトゥでしたが、そのメディア王国は紀元前550年までは、シルクロードの主要地域であったバクトリアをも領土に入れていたとされています。つまり、シルクロードを安全に行くにはメディアの協力なしには難しいことです。
ウラルトゥのルサ1世のときに、周辺諸国と同盟を結びアッシリアに対抗したが失敗したことがありました。その時に同盟者となったのは後にメディア王国を建国するダウイック(ディオケス)でした。彼は、ルサ1世とのアッシリア侵攻で捕らえられるも、裁判に勝利したことで名声を得て王となったともいわれます。ヘロドトスの記載によればメディア王国の初代はディオケスで在位は紀元前727年-716年とされています。二代のフラオステスは、紀元前585年に起きたとされる日食のとき、リディア王国のアリュアッテスと戦っていたが停戦して平和条約を結んだということです。
ルサ1世が外交手腕に長けていたことを考えれば、同盟国の一つがリディア王国であったかもしれません。ウラルトゥ王とリディア王の在位を記します。
アラマ王とルティプリ王が国を建てるのは紀元前858年です。
紀元前735年ー714年 ルサ1世
紀元前714年ー680年 アルギシュティ2世(ウラルトゥ衰退期が始まり、アッシリアの属国状態に)
紀元前680年ー639年 ルサ2世
紀元前639年ー635年 サルドゥリ3世
紀元前635年ー629年 エリメナ
紀元前629年ー615年 ルサ3世
紀元前615年ー598年 サルドゥリ4世
紀元前598年ー590年 ルサ4世(滅亡)(24)
紀元前716年ー678年 ギュゲス(ルディ王グッグ、キンメリア人の侵入に対しアッシリアに援護を依頼したが、後にアッシリアへの貢ぎ物を打ち切った)
紀元前678年ー629年 アルディス
紀元前629年ー617年 サドュアッテス
紀元前617年ー560年 アリュアッテス(メディア王フラオステスと日食の戦いを経て平和条約を結ぶ)
紀元前560年ー574年 クロイソス(メディア王国を倒したキュロス2世により国は滅亡。捕らえられてキュロス2世を補佐するようになる)
リディア王国(紀元前20世紀ー574年)
ウラルトゥ王国のルサ1世はアッシリアとの戦いには破れましたが、外交手腕があったとみられます。当時から頻繁に行われていた婚姻同盟によりリディア王家とも血縁でつながっていた可能性は否めません。リディアのメルムナス期を興したギュゲスの在位はルサ1世の息子アルギシュティ2世とほとんど同じです。
ギュゲスはアッシリアに援軍を依頼しながらも、キンメリアを追い出した後は貢納を止めています。アッシリアを憎んでいたであろうアルギシュティならば、それもあり得ます。
衰退期に入ったウラルトゥからリディアの地への移行を始めたのです。そして、アリュアッテスの時代にメディアとの平和条約が為されて、ウラルトゥのルサ4世がメディアを通って比較的完全にバクトリアへ入り、満州へと入ることが可能になりました。
その後、メディアを破ったキュロス2世にその神徳を買われたクロイソスがバクトリアに入り、ルサ王をサポートすることも可能だったでしょう。
夫余(紀元前239年ー後494年)から高句麗へ
扶余(夫余)は高句麗と同じツングース系の貊人(はくじん)が、紀元前239年ごろ中国東北部の松花江中流に建国したとされます。1~3世紀ごろには鮮卑や高句麗に対抗する勢力となりましたが、494年に勿吉(モッキツ)に滅ぼされました。(勿吉は6世紀半ばに高句麗により滅ぶ)貊族の解募漱(へモス)の東明王は、松花江にいたダウ―ル族といわれます。モンゴル高原からサマルカンドへでる北ルートのシルクロードで、ウラルトゥからやってきた民族が貊族だということです。その貊族は紀元前239年に夫余前期王朝を築きます。
貊族として有名なお話が残っています。
中国の河北省唐山市にあったといわれる高令と呼ばれる国の一つ孤竹国(こちくこく、紀元前17世紀ー紀元前660年)の家に三人の息子が生まれました。王は末っ子に国を譲ろうとしましたが、末っ子は兄を差し置いて王になるわけにはいかないと辞退すると、長男は国を逃れて他国へ行ってしまいました。末っ子は兄のあとを追って国を出たので国は真ん中の子が継ぐことになりました。その兄伯夷(はくい)と弟叔斉(しゅくせい)は、名君として著名な周の文王のもとへ向かう途中、文王の子武王が、殷王朝を倒す軍を立て向かっているところで出くわしました。兄弟は、まだ父王の喪が明けないうちに戦を起こすことは仁ではないと武王を諫めました。周囲の兵が兄弟を殺そうとしたところへ、軍師であった斉の呂尚が止めて「手出しをしてはならない。その人たちは正しい人たちだ」として兄弟を逃がしたということです。兄弟は後の地にも徳ある人として尊敬されます。これが紀元前1000以上前ということになっています。年代から見て伯夷(はくい)はウラルトゥ王国ではなくミタンニ王国のフルリの民だったのかもしれません。
その後武王は殷の紂王を倒し、紀元前1046年に周を建てます。
その西周最後となる幽王(紀元前781-771)の最初の正室は申候の娘で、その息子の宜臼は太子となっていましたが、後宮にいた褒姒(ほうじ)を寵愛するあまりにその子伯服を太子として、宜臼を廃太子しました。これを見た申候は挙兵し紀元前771年に幽王を滅ぼしました。幽王の死後、申侯や高令の許の文公らは太子の宜臼を申で即位させ、殷王朝の血を引く東周の平王が紀元前770年に誕生します。西周討伐の首謀者となった申候(武伯)の父は申の初代申伯で周の宣王の母の兄弟でした。そして尊敬されるかの伯夷の子孫になります。つまり、ミタンニ王国の民です。
ミタンニ王国からの亡命者である貊族に、ウラルトゥ王国の王族が交わったのはどのタイミングだったのでしょう。夫余建国時代を見ていきましょう。
紀元前239年ごろ 解夫婁王(へぷるおう)は、太子の金蛙が生まれた時、宰相の阿蘭弗が「太陽神が私に降臨して、『吾が子孫がいずれ国を作るだろう。この地から離れなさい。東海に迦葉原という地がある』」というので五穀がよく実るという東海の迦葉原(かはばる)に地に遷都し東扶余を建国した。
紀元前239年 解慕漱(へもす)は夫余(熊心山)に来て、兵を起こし夫余王(解夫婁王)を追い出して翌年に古列加王(箕子朝鮮の第36代の王、在位紀元前342年 – 紀元前315年)を追い出し、北夫余を建の孫娘国した。解慕漱と河伯(憑夷/ひょういという人間の男が黄河で溺死したとき、天帝から河伯に命じられたという。河辺で仙薬を飲んで仙人となった)の娘の柳花夫人の間の息子に、高句麗の建国者朱蒙(都慕王、東明王)がいる。
紀元前37年 東明王(紀元前37年ー19年)が高句麗(卒本夫余)建国。東扶余の二代目金蛙王は、朱蒙(東明王)を生んだとなっている。
紀元前19年 瑠璃明王(紀元前19ー紀元18年)が高句麗王となる。
紀元前18年 瑠璃明王とは腹違いの兄弟で、朱蒙が来た扶余から卒本夫余に逃れた時の息子温祚王(おんそおう 紀元前18年-紀元28年)は、瑠璃明王が朱蒙を追いかけてきて太子となったので、漢山の地で慰礼城(いれいじょう)に都を置き、百済を建国する。
紀元前7年以前 帯素王が金蛙王から東扶余三代目として継いだ。
紀元13年 東扶余3代帯素王が高句麗を攻める。
紀元18年 大武神王(18年ー44年)が高句麗王となる。
紀元22年 帯素王が高句麗の三代大武神王に殺される。帯素王の末弟曷思王(かるさおう)が東扶余から逃げて別の国を建てた。
紀元68年 曷思王(かるさおう)の孫である都頭王が国ごと高句麗に降伏して、都頭王は高句麗に仕え、于台の官を授けられた。大武神王の王妃は曷思王の孫娘。
高句麗王の出自は扶余の貊族であり、三代大武神王(だいぶしんおう)が死んだとされるのは44年ですが、その時年齢的には41歳ぐらいです。大武神王が三種神器を受け継いでおり、朝鮮半島から九州へ、さらに奈良の地へ入ったということも考えられるのではないでしょうか。大武神王の系譜は高句麗ではすぐに途絶えていますし、高句麗を建国した朱蒙は、北扶余→高句麗→百済というように移動して、その息子たちである高句麗二代目の瑠璃明王と、百済初代の温祚王は腹違いの兄弟です。だんだんと南下して高句麗や百済を建てているという先例もあります。
これがウラルトゥ→扶余→高句麗→百済→九州→奈良というルートを通り、天津神の系統は紀元1世紀に日本に王朝を建てたという説です。
もう一つ、ミタンニ王国→殷→箕子朝鮮→馬韓→九州→奈良というルートが考えられます。
ミタンニ王国→殷→箕子朝鮮(紀元前1122年ー195年へ)
ミタンニ王国は、エジプトと婚姻同盟を結んでいたのですが、アクエンアテンのアマルナ革命に巻き込まれて、折から攻められていたアッシリアやヒッタイトの攻略に墜ちていきます。しかし、むしろ巻き込まれたのはエジプト王家かもしれません。そもそもミタンニの妻の信仰であったアテン信仰にのめりこんだファラオであったという説もあります。それはともかくとして、ミタンニ王国はシャットゥアラ2世(紀元前1280年ー1270年)で滅亡します。ミタンニ王が三種神器を引き継いでいたとします。
ミタンニ王(サンスクリット語) 殷王朝の王
紀元前1500年ごろー1490年 キルタ(フルリ人)
紀元前1490年ー1470年 シュッタルナ1世
紀元前1470年ー1450年 バラタルナ(ファラオトトメス3世が領土に侵入)
紀元前1450年ー1440年 パルシャタタール(領土を拡大した)
紀元前1440年ー1410年 シャウシュタタール(エジプトの脅威から解放されアッシュールを攻撃)
紀元前1410年ー1400年 アルタタマ1世(ヒッタイトの脅威に晒されエジプトと同盟)
紀元前1400年ー1380年 シュッタルナ2世(エジプトと婚姻同盟。アッシリアなどを属国化しヒッタイトも追い払う)
紀元前1380年-1380年 アルタシマラ(トゥシュラッタの兄)
紀元前1380年ー1350年 トゥシュラッタ(娘をエジプト第18王朝のファラオに嫁がせ婚姻同盟。王妃ネフェルティティの父)
紀元前1350年ー1330年 アルタタマ2世(ヒッタイトの臣下?王位を簒奪。ヒッタイトと条約を結び境界を決める)
紀元前1365年ー1330年 シュッタルナ3世(先王に逆らう息子。ヒッタイトから独立しアッシリアの支援を模索した)
紀元前1350年ー1320年 シャッティワザ(トゥシュラッタの弟。ヒッタイトに敗れヒッタイトの庇護のもと即位)
紀元前1320年ー1300年 シャットゥアラ1世(アッシリアの臣下になるも後に反乱)
紀元前1300年ー1280年 ワサシャッタ(ヒッタイトに支援を求めてアッシリアに反乱を起こすが鎮圧され、王族はアッシュールに連行される)
紀元前1280年ー1270年 シャットゥアラ2世(ミタンニ最後の王)
滅亡後のミタンニ王族がどうなったかは不明です。
中国に興った殷王朝の年代とほぼ同じであること、そしてミタンニ王の名がサンスクリット語で解釈できるところがヒントとなりそうです。
殷(商)王朝
紀元前1558年ー1546年 天乙(湯王 夏の家臣で夏の王桀を追放し夏を滅ぼす)
紀元前1540年ー1528年 太甲
紀元前1509年ー1504年 太庚
紀元前1504年ー1487年 小甲(キルタ王?)
紀元前1487年ー1413年 太戊(賢臣伊陟を重用し殷を復興する。父伊尹は洪水の神といわれる。治水に長じていた)
紀元前1400年ー1391年 中丁
紀元前1372年ー1353年 祖乙(神官巫賢を重用し殷を復興 トゥシュラッタ?)
・
紀元前1274年ー1215年 高宗武丁(殷墟の地に都を置く。甲骨文字はこの時代から見られる。ミタンニ王が殷を継ぐ?)
・
紀元前1124年ー1111年 太丁(帝乙・比干・箕子の父)
ミタンニ王族がサンスクリット語で解釈できる名を持っていたのはなぜなのでしょう。サンスクリット語が体系化されるのは、アーリア人がインドへ移動してしばらくたってからでありミタンニ王国の時代と同時か後なので、ヤムナ文化で先祖が話していたインド・アーリア語を使ったからでしょうか。フルリ人とアーリア人が連合し王国を築いたという説が多いです。
この時代からそろそろ、ダマスカスを起点として西アジアからインドへへと陸の交易を担いはじめてのがアラム人です。ラクダを利用した広範な交易路をもち、アラム語が交易の共通語に使われました。山々でラズライト、ネフライト、カーネリアン、ターコイズなどの半貴石の採掘をし、中央アジアからイラン、メソポタミア、エジプトにまでラズライトを運ぶために使われた、「ラズライトの道」が古くからありました。「ネフライトの道」は、ホータンやヤルカンドと中国北部を結んでいました。そのほかにも、カーネリアンはソグディアナやバクトリアから西アジアの国々へ、ターコイズはホレスムから、インドから真珠、コショウ、ダイヤモンド、サンゴ、鼈甲などが運ばれました。
アラム人が中心となって開いた交易は、インドの物品だけでなく言葉や信仰、文化をもミタンニの一部でもあったシリアまで運んだのです。ヒッタイトとミタンニとの間の条約ではインドのヴェーダの神ミトラ、ヴァルナ、インドラやナーサティヤに誓いが立てられており、宗教的にも大きな影響を受けていたことがわかります。
ミタンニ最後の王は、商人が行く交易路を伝って、ソグディアナのサマルカンドを経由し、敦煌を経由して殷王朝の地までたどり着きました。その地を復興し、自らの先祖の系譜を復元したのだと思われます。
その殷王朝も帝辛(ていしん、紂王紀元前1076年ー1046年)のときに、周を建てる武王(姫発 紀元前1046年ー1043年)により滅ぼされます。武王には呂尚という家臣を持ち善政を敷きました。呂尚の祖先は、夏を建国した禹を補佐して治水事業で功労があるとされます。呂は殷周革命の功労者として斉に封ぜられます。
紂王時代に祖の悪行を諫めて幽閉されていた中央の叔父の箕子を開放して、朝鮮に封じ箕子朝鮮の歴史が始まりました。
紂王の異母兄には宋にて、殷の祭祀を続けさせた上に、古代の聖王の子孫を焦、祝、薊、陳、杞に、功臣に斉、魯、燕、菅、蔡などに封じました。
箕子朝鮮(紀元前1122年ー195年)の末裔は馬韓を建て辰国(紀元前3世紀ー紀元108年)へと移動します。
箕子朝鮮は最後になる哀王が燕に国をだまし取られるという形になります。馬韓の初代となった哀王は辰国へ逃げたということです。馬韓(後の百済 紀元前2世紀ー4世紀)、弁韓(後の金官国/駕洛国/金官加羅/任那加羅 紀元前2世紀ー4世紀)、辰韓(後の新羅 紀元前2世紀ー356年)は「神功皇后の三韓征伐物語」の舞台となり、日本とは縁の深い場所になります。
天孫ニニギ族はどのような経路でいつ日本へ帰還したかのまとめ
長々と王族の年代というものを書き連ねてきました。アマテル、天孫族の主流の民はフルリ人です。
フルリ人の王が西アジアの地でどのように継投してきたかをみると、かなり大変な道であったのではないかなと想像できます。
紀元前6000年ごろアララト山麓にアマテル降臨
紀元前5000年ごろ三種神器を受けたニニギがメソポタミアエリドゥから八州巡り
紀元前2550年ごろー2113年 ニニギ族 ラガッシュ都市国家建てる
紀元前2113ー2004年 年ホヲテミ ウル第三王朝建国
紀元前1850年ー1180年 ウガヤフキアエズ朝がウガリットから始まる
紀元前1350年ごろー1270年 ウガリット王国はミタンニ王国にすり替わり、エジプトとリンクした一部は日本へ
紀元前1178年ごろー858年 シロ・ヒッタイト時代
紀元前858年ー590年 ウラルトゥ王国建国 紀元前609年以降北イスラエル人が逃げてくる
紀元前716年ー574年 ウラルトゥ王国とリディア王国とリンク
紀元前239年ー後494年 貊人(フルリ人)ヘプルが扶余建国
紀元前37年ー後668年 貊人(フルリ人)東明王が高句麗建国
紀元44年 高句麗3代大武神王→九州→大和
となりました。
ちなみに、朝鮮にも三種神器がありまして、高句麗の始祖東明王の「ラッパと太鼓」2代瑠璃明王の「剣」3代大武神王の「鼎(かなえ、三脚器)」だそうです。
黄金の国フリギアからハプルブルグ家へ、エジプトから天孫へ移る”ガイアの意志”
ヒッタイト王国がローマ帝国に化ける トロイヤ戦争 海の民
鉄と金と馬をもたらしたスキタイサカ族 月氏 匈奴
海のスキタイ島ケルト人、フェニキア人、エブス人ら文明を運ぶ海洋民族
エジプト18王朝アクエンアテン王と天孫ホアカリ
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