[麒麟がくる]明智光秀を例えるとどの神様?信長と吉秀と家康を手のひらにのせた神!?

明智光秀『麒麟がくる』



2020年の大河ドラマ『麒麟が来る(きりんがくる)』で初めて主役となる戦国武将・明智光秀(あけちみつひで)といえば、本能寺(ほんのうじ)です。現代では人気者の織田信長(おだのぶなが)を本能寺にて討ったことで「逆賊(ぎゃくぞく)」呼ばわりをされ続け、教科書にもしっかりと名を刻む有名人でありながら人気がないという不思議な武将で、これまでNHKで主役として取り扱うことがなかったのです。けれども2020年、令和2年を迎えるにあたり、「新しい大河」を目指すNHKで取り上げられることになりました。その名も『麒麟が来る』というもので。明智光秀という武将を「麒麟」と見立てるのか、「武士の誇りを忘れぬ男」というキャッチフレーズが付いています。その時代の多くが切望したであろう太平の世に来るという「麒麟」のことを言っているのか、2020年長谷川博己さん主演の大河ドラマから目が離せません。

NHK『麒麟がくる』でトラブル発生、初回放映は1月19日

「伝説の麒麟は平穏な世にやってくるという。
戦いの絶え間ない混迷の時代、その若者は多くの人と出会い、
戦国の世に翻弄されながら必死に生きた。
明智光秀。
まだ何者でもない一人の青年の物語がはじまる。」

「仁のある政治をする為政者が現れると降り立つ聖なる獣・麒麟を呼ぶのは、一体どの戦国武将なのか・・・新たな時代の大河ドラマ」とは、NHK2020大河ドラマのテーマです。

麒麟は慶事の前触れとして姿を現すとされる聖獣で、キリンビールのロゴマークにも使われているので知っている人はとてもおおいでしょう。

喜びの多い「麒麟」と、逆賊で不幸感がただよう「三日天下」の明智光秀とはあまりつながらない気がしますが、なぜ『麒麟がくる』になったのでしょうか。戸惑いを隠せないでいるうちに、放映前にすでにひと悶着ありましたね。ドラマの中で濃姫を演じるはずだった沢尻エリカさんが薬物所有で逮捕されてしまい、代役には川口春奈(かわぐちはるな)さんがきまり、第一回放映日が1月5日から1月19日に変更となりました。

大変なことでしたが、ギリギリのところで作品全体の構成は守られたというか。。。NHKにとっては「不慮の儀(ふりょのぎ)」とでも言いましょうか。

ただ、明智光秀という武将は「知将」として鳴らしており、丹波平定を預かったときも4年の歳月をかけて交渉して味方に引き入れ平定した実績があり、朝廷や室町幕府との調停役など交渉人・外交官としての力量を主人の信長からも買われていた、智謀と忍耐の人でもあります。そうした人が「不慮の儀」とは、いったいなにごとだったのでしょうか?

そもそも「本能寺」で何事が起きたのか



本能寺の変が起きる直前までのこと

織田信長が全国平定の仕上げにと中国攻めは羽柴吉秀に、四国は明智光秀が大将軍として担当していたところ、明智光秀は解任され、徳川家康の接待役を命じられます。そのさなかに羽柴吉秀からの援軍要請が入り、それを援護するようにとの命令に、「ライバル吉秀の各下に入れというのか」と忸怩(じくじ)たる思いがあったのでは?とされることがおおいようです。

そして、軍備を整えていると次なる指令は「丹波守の任を解き、岩見・出雲守を任ずる」というものでした。寝耳に水の国替えです。国替えですが、まだ、信長の所領ではない敵方の陣地への国替えであり、事実上は丹波の所領を召し上げられた形となりました。

「追放されたのか!?」
と背筋が凍る思いだったことは想像に難くありません。家族や領民、家臣思いの光秀だからこその責任感が、目の前を真っ暗にしたことでしょう。まさに背水の陣を敷くという覚悟を持たざるを得ない状況に、信長によって追い込まれました。一度若いころ浪人し、食うにも困るみじめな生活を経験した光秀には、相当きつかったでしょう。

そして、歴史上では光秀は秀吉の援軍として中国に向かうのではなく、本能寺への行軍を選んだということです。

本能寺でおきたこと

明智軍が本能寺境内に入ると、ネズミの一匹もいないように思えるほどの静けさで、広間にはだれもおらず寝室にも萱(かや)が吊り下げられているばかりでもぬけの殻だったこと。明智軍が押し寄せてきたことを知った信長は、自ら戦ったが最終的には奥にこもりそこで自刃して果てたとも伝わりますが、その最期は誰にもわからないという。本能寺に火をかけたのは信長の命で行われたとされるも、信長の死体自体はどこにもなく、信長の首だけを躍起になって探した光秀も、その後光秀を討った秀吉も骨すら見つけることができなかったと言います。京都にあるいくつかの信長のお墓に、その遺骨はないのです。

ところが、静岡県浜松市のお寺になんと、信長の首塚があるというのです。

https://youtu.be/hkxMkSuJxU8

信長がもっとも懇意にしていた公家で五摂家筆頭・近衛相国前久(さきひさ)がいます。前久は戦乱の世で左大臣、太政大臣を歴任した実力者ですが、信長が本能寺に倒れると同時に姿を消したとのことです。前久は早々に京都から脱出し、群馬の草津に行き、そのあと浜松の龍禅寺にて出家し「龍山」を名乗り、信長の菩提を弔ったと伝えられているということです。

その龍禅寺住職によれば、信長を葬ったお寺があるとのこと。西山本門寺の伝えによると、本堂に位牌のある後水尾天皇は近衛前久の孫で、公家近衛家の外護を受けたということ。そして、本門寺18代の日順上人の父・原志摩守宗安(はらしまのかみむねやす)が本因坊日海(ほんいんぼうにっかい)という方の指示により信長の遺体をはるばるここに運んのだと伝わっているということです。

本能寺の一日前の晩、本能寺に宿泊した囲碁の名手が本因坊日海で、明智襲撃の事態に遭遇し信長の首をそこに居合わせた原志摩守宗安に託したと。首は本門寺の柊の下の首塚に祀られているということです。(胴体は行方不明のままだが?)

今になってわかることもたくさんあるようですが、当時の光秀は遺体が見つからなくて慌てたことでしょう。もしかしたら生き残っていて、明日の我が身を脅かすかもしれないのですから。どう対処することもできない、そのことこそ「不慮の儀」と言えるのかもしれません。

ファンは明智光秀のどこが好き?

「逆賊」として人気がない明智光秀と言われていますが、命日の6月13日には多数のファンが福井県の明智神社に集まるそうです。そういう方たちにとって明智光秀にはどのような魅力があるのか言葉を集めてみましょう。

・歴史を変えた人物
・行政手腕もあり、軍事的統率力もあり、文化芸能にも通じた万能選手であった点
・光秀は逆賊の印象が強いが、本当は平和を願って各地で功績を残している
・近年見つかった資料によれば、天皇を護る正義の人へと大幅な格上げになっている
・名門一族の一人として高い教養を身に着け将軍に仕え、都の文化にも精通していた
・大志を持っていた
・ダンディズム。男の美学がある
・光秀は信長にとって一番初めに城を与えられた中途採用としては異例の出世をした有能さ
・戦死した兵士を大将から足軽まで名前を書き、平等にコメを奉納して供養した家臣思い
・『福知山音頭』には明智光秀を讃えて「明智光秀丹波を広め 広め丹波の福知山」とうたわれるように、地域の発展に尽くした
・戦乱で荒れた領地の復興に尽くし、払いきれない年貢米を免除した
・敵対した豪族に対しても降伏するものは家臣に取り立ててた
・「鳴かざれば はなしてやろうホトトギス」という人間的な優しさを持った武将であったと思う

一方で信長は・・・
信長の方針は、歯向かうものは徹底的に弾圧し家臣であても容赦がない。強敵本願寺の攻略を命じられた佐久間信盛は4年たっても達成できず目立った働きの無いことを「前代未聞の事」と切り捨てています。追放された信盛は山中で息絶えたという。信長の家臣たちは、天下統一のためにはいかなる犠牲をも払う覚悟が求められたのです。

信長の元で明智光秀が出世した理由

18歳で結婚し26歳で二番目の妻と再婚したが、29歳で仕えていた主君が討たれ浪人の身となり、妻が髪の毛を売って食いつないだこともあったそうです。その妻が、光秀とする前疱瘡にかかって、顔にあばたが残ってしまったそうで、親は遠慮して妹を嫁に差し出そうとしたが、光秀はあばたを意に介さなかったようで、その妻以外の側室をもたなかったといいます。愛妻の内助の功もあったのでしょうか。

39歳で足利義昭の幕臣となり、41歳の時に信長に初めて面会。尾張の大名織田信長は、1567年美濃国を手に入れ勢力を拡大し京の都へと軍を進めようとしている。そのため、京の都に詳しい人材を求めていると考えた光秀は信長に接触し、二人を引き合わせました。

その後信長に召し抱えられ1568年京に向かいます。室町幕府に仕えていた経験や人脈を買われて京都奉行に抜擢、朝廷や神社仏閣との調停役を任され手腕を発揮しました。1575年には丹波を平定せよと命令されました。山岳地帯の盆地ごとに豪族が守りを固めており、武力平定は難しいと考えた明智光秀は交渉を繰り返し豪族たちを味方に引き入れに成功しました。

それで1579年丹波の地を領地として与えられ、はっかく窯という茶道具の名品をあたえられたのです。褒美の茶道具を使って盛大な茶会を催すことは慣例となっていましたが、こういうことは極めて名誉なことでした。

福知山市郷土資料館が所蔵する『明智光秀家中軍法』には、瓦礫沈りん(がれきちんりん)の輩から召し出し取り出してくれた信長公に謝意が述べられています。『信長公記』によれば、信長も「丹波國 日向守(光秀)働き 天下の面目をほどこし候」と最高級の賛辞を惜しまなかったといいます。

明智光秀の能力と抜擢、出世はもともといた家臣から嫉妬を買ったことでしょう。マロ顔で貴族的な雰囲気を持つ光秀を、歯ぎしりしながら横目で見ていたであろう秀吉の姿が想起されます。
二人の蜜月に暗雲がたなびき始めるのは、それほど年月を経ない頃でした。

丹波という土地にやどる神々

人が暮らす土地には気候があり、土地独特の文化があり、気風があり同じ日本人とはいえ少なからず人の気質に影響を及ぼしているのを感じます。その土地の湿度や気温が人に与える影響力は思うよりも大きなものです。40歳ぐらいまで歴史に頭角を現さなかった光秀が、一国一城のみならず大きな地域の主となって精魂込めて治めた4年の間、どのような気風の中にいたのかが気になるところです。まさにその間に、本能寺の変を起こすなんらかの原因があるようにも思います。

ニギハヤヒVSカンヤマトイワレヒコ、その遠因は十種神宝と三種神器

光秀は45歳で近江滋賀郡5万石を、52歳から丹波29万石を所領として4年間治めました。お隣の丹後は盟友幽斎の息子細川忠興(ほそかわただおき)が治めて、光秀の管理下にありました。忠興の正室が光秀の娘である珠(たま)、イエズス会により洗礼を受けた細川ガラシャです。細川氏とは親戚関係もありました。古代には丹後も丹波に含まれる一部だったわけで、土地の文化的に差はなかったと言えます。そしてその土地の文化には産土神さまの影響があります。

丹後一之宮籠神社(このじんじゃ)の創建は古く、奥宮とされる眞名井神社(まないじんじゃ)の元宮は『ホツマツタヱ』によれば、天照大御神が尊崇する豊受大神が神上がったところとされており、天照大御神も同じ場所にお籠りになったという大変由緒の古い土地柄です。

この宮をお祀りしていたと名が挙がる最初はアメノホヒの母「モチコヒメ」と宗像三女神の母「ハヤコヒメ」です。二人は姉妹で、実家が北陸から山陰にかけての地域を治める守でしたが、この姉妹はやがて皇の弟スサノオの神輿を担いでクーデターを起こす火種となります。その出発点が丹後の地域にあった、ということです。

籠神社の御祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)といい、大和の地にアスカ宮をたてた天孫です。御祭神は大和の地で神上がっているので、こちらを拠点としたのはアスカ宮の二代目ニギハヤヒだったと考えられます。その子孫とされる海部氏(あまべし)が社家を継いでおり、その系図は国宝にも指定されています。ニギハヤヒは、アスカ宮に伝わる皇統にしか許されない十種神宝(とくさのかんたから)を蔵していましたが、天孫ニニギの玄孫(やしゃご)にあたるカンヤマトイワレヒコ(のちの神武天皇)が三種神器をもち九州からやってきた際、子のウマシマチを介してイワレヒコに差し出しているという恨みを秘めています。天孫は二人いて、十種神宝をもつ火明命は兄、三種神器をもつニニギは弟ということです。どちらが正統か。そんな争いの火種がここにあります。結果として神武天皇のもとに皇統は統合されました。

ただし、土地の人々や支えたナガスネヒコをはじめとする家臣の怨念は今でも消えずくすぶり続けているようではあります。



信長がもしニギハヤヒだったら・・・

信長はヤマトタケルを尊崇していたらしいことが、今川義元を討伐した桶狭間の戦いの際の戦勝祈願行脚によって想像できます。武士にとっては剣の神様は心強いことでしょうし。ヤマトタケルは東征を成功させたにもかかわらず、慢心からか「いぶきの荒神」が原因で亡くなります。そもそも熱田神宮に祀られる草薙剣(くさなぎのつるぎ)は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)といって、スサノオが八岐大蛇を退治した際に見つかった剣なのですが、それを持たずに荒神退治に出かけたが、侮ったその相手こそ八岐大蛇の変化であり、返り討ちに遭ってしまった、という。

もう少し長生きすれば父を継いで第13代天皇となったでしょう。そんなイメージは天下統一を目前に倒れた信長と被りますね。「暦」を変えるよう指示したなど、朝廷をもないがしろにする態度から、日本の国体が失われるのではないかという危機感が明智光秀を動かしたという説もあります。

ニギハヤヒもまた大和の国を奪われ失脚しました。ニギハヤヒと同一人物ではないかと混同される天火明命が、織田信長にかぶって見えてしょうがないのですね。『ホツマツタヱ』に登場する兄ホアカリの事績はクニトコタチの生まれ変わりとされ逸の神と称賛された弟ニニギに比べればそれほど多くはありませんが、注目すべきは「空みつ大和の国」に降り立った神であり、天香久山を築山したことがあげられます。天翔ける船で飛んできた・・・。天香久山は一方だけすそ野が長く伸びていて、滑走路ではないか・・・。と宇宙人説も飛び出す神ではあります。その異色さがどうしても「革命児織田信長」と重なってしまいます。

もし、織田信長がホノアカリだとすれば、明智光秀はどのような神の役回りを演じていたのでしょうか。

ニギハヤヒはホノアカリの死後養子となってアスカ宮を継いだのですが、もう一人、養子となった人があります。その名は高倉下(天香語山)命です。この方は神武東征の際にフツノミタマを発見し献上した功績で有名です。タカクラシタはホノアカリの居ぬ間にその妻に「家臣の子だから」といって叔母にあたる側室とともに追い出されています。ホノアカリは再三宮に戻るようにと説得されますが、ついに戻らず紀州は熊野で過ごしたようです。タカクラシタは結果として元義父ホノアカリの敵方に回り功績をあげて、かなり長生きし子孫を残したのです。タカクラシタの土地の治め方は武力をもってすることがなかったといいます。相当に仁ある統治をしたのではないかと思われます。もし、明智光秀がタカクラシタならば、長生きできたことでしょう。

しかし、結果、志半ばで秀吉により討たれたことになっています。

織田信長が明智光秀に中国攻めの援軍を命じた意図

光秀を精神的に追い込むことになってしまった、中国援軍要請と、岩見・出雲への国替え命令を、信長はどのような意図で行ったのでしょうか。はじめてその事実を知ったとき、天下布武をねらう信長ならば、遠い岩見・出雲を治めさせるならば統治手法が固い家臣を登用したいと思わなかったでしょうか。

この命令が下される三か月前のこと、光秀はある一言で信長の逆鱗に触れてしまいました。1582年宿敵武田家を滅ぼしたとき、光秀が「われらも骨を折りご奉公した甲斐がありました」と言ったことで「どこでどう骨を折ったというのだ」と信長は光秀に厳しい折檻を家臣の前で与えたのでした。

だからこそ「骨を折ってみよ」という意味があったのかもしれません。信長と光秀の見ている世界が明らかに異なるのが感じられます。敵国一刻を自らの手で奪い取ってみよと。秀吉と張り合ってそれほどの能力を発揮してみよと。

出雲の国の国替えといえば有名な「国譲り神話」があります。出雲はオオナムチの治めで豊かに実り多く、領民が植えることがなかったといいます。天高くそびえるほどの大社は、まるで中央政府をも凌駕して突き抜けようと心得違いをしている・・・。不安が募ったときの政府は何人もの使者を送り出しますが、ことごとく取り込まれてらちがあきません。ついにはタケミカヅチ・フツヌシの武力をもって国替えを迫るのです。結果として、出雲をアメノホヒに譲り、津軽に国替えとなったオオナムチはそこでさらなる繁栄を築きます。

国替え=丹波国の召し上げ=追放 ととらえたかもしれない老境の光秀
国替え=岩見・出雲を与える=武器の産地を押さえる(できなければそれまでの者)戦略の駒を動かして将軍教育をおこなったかもしれない信長。能力ある家臣を追放することはないだろう。

国替え=国の統治方法や理想が主君と食い違っている=仕える主君を挿げ替えるとき と思ったかもしれない。がその準備が何もなされていないのはあり得ないかも。家康の接待役を務めたこともあり、何らかの耳打ちが為されていなかったか。

真実はどこにあったかは謎ですが、1582年、信長という希代の革命児は歴史から葬り去られます。

本能寺の変を招いたのは「天下統一」の夢か「絶望」か

もともと朝廷や幕府に近いところにいた交渉人明智光秀は、日本の国体を作っている天皇や幕府側の意向を直接受け取ることができる立場にありました。朝廷は「太政大臣などなんなりとつかせる」ことや「征夷大将軍につける」という申し出ても断わられ、危機感を増幅させたことでしょう。「信長は自ら帝王になろうとしている・・・!」と。

様々なことを客観的にみることができた頭脳の持ち主だったらしい明智光秀は、外交官として自らの生き筋をしっかりと見据えていたと思いたいです。自らが起こす「不慮の儀」などあり得るはずもなく、本能寺の変の後の四面楚歌に遭ってもその覚悟はしていたことでしょう。「明智光秀ごときが天下統一など聞いてあきれるわ!」そういう声は当然想像できただろうと思うし、結果として「三日天下」などと逆賊のそしりを受けることと相成ったわけで。

ですが、やっぱり「天下統一」を、自分の名でなくとも成し遂げたかった。麒麟を見てみたかったのではないかと感じます。

現在でも「明智光秀は利休だった」「利休として秀吉の参謀となった」「利休として秀吉を精神的に殺した」とか、「明智光秀は江戸を発展させた天海となった」「天海として家康(の影武者)を補佐し天下統一を成し遂げた」「徳川家7代までは明智光秀の関係者で固められている」という伝説が生きていてマンガやゲームなどにも登場するということから、そう感じるのです。

もし、明智光秀が本当は山崎の戦で死んでおらず、比叡山に入って修行し、家康の元を訪れたという天海だったとすれば、かのタカクラシタの成功に勝るとも劣らない世の中をつくっていたことになります。260年続く平和と庶民文化が花開く源となったわけです。麒麟が、きっと現れたに違いありません。



明智光秀と神社

戦国時代、多くの武将は神社に戦勝祈願をするために訪れています。明智光秀も例外ではなく中国遠征の前に、居城である亀岡城から3.6㎞のところにある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れています。ただそれだけではなく、二度三度とおみくじを引いたという逸話が残されています。「中国援軍か」「本能寺か」という究極の選択を迫られた孤高のTOPには、神々が相談相手だったのかもしれません。

愛宕神社(あたごじんじゃ)
元愛宕と呼ばれ、創建は神代。当社の分霊が、和気清麻呂により嵯峨山に遷されました。防火・防災の神とか金運・出世運などのご利益があると言われていますが、「武器の火力」という言葉があるように武人にとってはあやかりたい神様です。
御祭神/火産霊神(ほむすびのかみ)、伊邪那美神(いさなみのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)
創建/神代。社殿は507年頃
所在地/京都府亀岡市千歳町国分南山ノ口1
アクセス/JR亀岡駅から北へ約4㎞
問い合わせ先/0771-23-9341

明智光秀を祀る神社

■明智神社
浪人時代、朝倉氏に身を寄せていた時の居住地です。あけっつぁまと呼ばれ親しまれています。明智光秀木像があり、一年に一度6月13日命日に開帳となり多くのファンが詰めかけます。細川ガラシャの生誕地でもあります。
御祭神/明智光秀公
所在地/福井県福井市東大味町
アクセス/越前東郷駅から南へ4.7㎞
問い合わせ先/福井市おもてなし観光推進室 0776-20-5346

■御霊神社(ごりょうじんじゃ)
地域に慕われていた光秀公の冤罪を被ったときに建てられる御靈神社は全国に存在し、この社もそういった霊を慰める意味で創建された神社だそうです。
御祭神/宇賀御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、明智光秀公
創建/1705年
所在地/京都府福知山市字中ノ238
アクセス/JR福知山駅から、徒歩10分から15分程度
問い合わせ先/0773-22-2255

明智光秀について
生誕地/明智城跡 岐阜県可児市瀬田
おいたち/土岐一族が治めていた岐阜県可児市が故郷。源氏の流れをくみ将軍家とも交流のある名門一族の流れをくむものとして育てられる。しかし光秀が使えていた将軍が暗殺されるという事態に浪人のみとなる『冨代記』には朝夕の食事にも事欠く貧しいものだったとある。しかし大志だけは手放さなかった。
家臣思い/大津市坂本にある西教寺には光秀が奉納した『青銅経筒』がある。戦死した家臣の供養をするためコメを寄進。大将から足軽まで18人一人一人のために身分にかかわらす平等に寄進した。
武勇伝/1570年朝倉氏を攻めた信長は味方のはずの浅井氏に裏切られ挟み撃ちに合う。信長が生き伸びるためにしんがり隊を任され、守り抜いたのが羽柴吉秀と明智光秀。
天下布武の理想/「天下布武」というスローガンを自らつくり兵法や武器、家臣を含めた兵士などの道具を動かして達しようとしている信長に対し、自らも天下布武に対して一翼になったのだという自負があった。が、朝廷の権威すら必要とせず、武力で天下統一を目論む信長には分限に余る「こしゃくな」ことだったのか逆鱗に触れる。
信長との出会い/光秀41歳、信長38歳の時、足利義昭仕える幕臣として信長にあう。
秀吉との関係/光秀は遅れてきた、秀吉のライバルで中国地方は秀吉、四国は光秀に任されていた。秀吉が中国攻めの総大将を任されたが光秀は任を解かれ、徳川家康の接待役を任されたが、宴会の途中秀吉からの援軍要請に光秀も命じられる。
本能寺の変の直前に戦勝祈願の連歌の会が開かれ「時は今 天がしたしる 五月かな」とうたったと秀吉が書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』ある。「土岐一族が天下を治める」とうたっており 謀反人であると言っている。「逆賊光秀」を広めたのは秀吉。しかし『愛宕百韻』には「時は今 あめが下なる 五月かな」とある。そうすると意味が大いに異なってくる。
家康との関係/信長の元で家康の接待役を仰せつかる。
近年発見された資料/先陣を切って本能寺境内に入った光秀軍兵士が記録した『本城惣右衛門覚書』

アイコねえさんによる写真ACからの写真

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