
世界史において古代とはおよそ古代エジプトに文化が始まり(紀元前5230年ごろ)終わる(紀元前30年もしくは330年)までの期間に相当するとされています。
5000年にわたる古代の中でアナトリアとメソポタミア地域に大国がひしめき合った四王国時代に台頭してきた勢力は鉄を使用し、戦車を発明し、交易ルートを整えるなど、文化・文明を飛躍的に発展させました。四王国時代に活躍した民族について調べていきます。
古代ヒッタイト王国をつくったハッティ
ハッティとはハットゥシャを首都としてヒッタイト王国を築いた人々です。世界で初めて鉄製の武器や戦車を発明し版図を広げていった民族です。しかし、紀元前1178年、忽然とヒッタイト国王は姿を消します。国王だけではなく国と民が消えます。紀元前1650年ごろから約500年弱、エジプトと張り合う大国を誇ったのですが、その出自と滅亡後の行方は不明となっている不思議な民族なのです。
彼らは黒海の東からアナトリアにやってきたとされます。彼らが侵入した時、鉄鉱石の産地であるアナトリアにはすでに加工した鉄が存在しており、それを発展させたのがハッティでした。
紀元前4500年ごろコーカサス山脈の南側に起こったレイラテペ文化で見られる冶金技術は、メソポタミアからの移民により持ち込まれたといわれています。レイラテペで銅や鈴を扱う冶金技術を磨いていた人々が、アナトリアで鉄鉱石と出会い、製鉄技術を発展させていったのかもしれません。紀元前2350年ごろ建国したアッカド王国のサルゴンの時代にはすでにアッカド商人によりハットウシャは「ハッティの地」と表現されていました。アンカラにある遺跡からは紀元前1800年ぐらいの鉄片が見つかっていますが、製鉄炉のような遺構が見つかっていないため、鉄器製造の工程については国家機密にしていたとも言われています。
ヒッタイト王国は紀元前1595年頃の古王国時代には、戦車や鉄の武器を扱うことにより武力で他を圧倒し、バビロニア古王国を打ち破るほどの力を持っていました。しかし、内紛が起き、近隣国との紛争などでバビロニアを支配することなく本国へ帰還しています。せっかく戦争に勝利したバビロニアの地は同盟国であったとされるカッシートに譲る形になりました。結果としてカッシート王朝はバビロニアに平和をもたらしたのでした。ヒッタイトが国際政治や外交の先駆者と言われるのは、このような駆け引きをうまく使ったからでしょう。しかし、ここからヒッタイトの勢力は縮小していくのです。
紀元前1340年ごろシュッピルリウマ1世によりヒッタイト新王国が成立すると、紀元前1330年ごろミタンニ王国を制圧します。ハットゥシリ3世の時代の紀元前1285年頃、エジプト第19王朝のラムセス2世との間で起きたカデッシュの戦いの末に平和条約が世界で初めて結ばれました。
ヒッタイト王国おおまかな年表
ヒッタイトの歴史を大まかに記します。
紀元前2000年ごろ 黒海の北アゾフ海付近からカスピ海沿いに南下しアナトリアに入った説。同時にヒッタイト語が現れる。
紀元前1650年ごろー1500年頃 ヒッタイト古王国時代。最後の大王テリピヌ法典をつくった。そこから70年間中王国時代。
紀元前1600年ごろ サントリー二島で大噴火が起き、地中海岸に大津波。
紀元前1450年ごろ カスカ(カスガ)族が東アナトリアからハットウシャの北方に移動。後に海の民の侵攻に乗じてヒッタイトを滅亡に追いやる一勢力になる。同じころ北シリアの海岸線にセム族やフルリ人の国ウガリット王国成立。紀元前16世紀ごろからエジプトと交易がおこなわれていた。エジプトやヒッタイトに属するキプロスとの交易が盛ん。カデッシュの戦いではヒッタイト側に就く。ウガリット王国に近接した東地中海岸沿いでフェニキア人たちもエジプトとの交易により台頭した。フェニキア人は地中海にたくさんの植民都市を築き、交易民として活躍した。
紀元前1450年ごろー1178年 ヒッタイト帝国時代。
紀元前1430年ごろ トドゥハリア1世が隣国との条約や同盟をむすび、先駆的な国際外交を実施。王権が世襲制となり中央集権化。しかし、次世代はすべての敵から攻め込まれ、首都ハットウシャ陥落。
紀元前1344年 シュッピルリウマ1世時代再び栄光を取り戻し、アレッポ、ミタンニ、ウガリット、カルケミシュを支配下に。その間の情勢はアッシリアがカッシートを破り台頭、エジプトはアマルナ革命が失敗し王権を継いだツタンカーメン死亡後、その未亡人との婚姻同盟を結ぶために共同統治者であった息子をエジプトに送るが、途中で殺されエジプトと反目。
紀元前1333年 アッシリア帝国がバビロニアカッシート王位継承に介入する力を見せつけて脅威が増す。エジプト発祥の疫病大流行。
紀元前1330年ごろ アッシリアがミタンニを制圧。
紀元前1286年 カデッシュの戦い。エジプト19王朝のラムセス2世によりシリア北部アムルが攻め込まれ、生命線を絶たれまいとムワタリ2世が奪還を目指し戦った。戦闘が膠着状態に入り、ムワタリは停戦を申し入れラムセス2世は受諾した。ラムセス2世は負けることはなかったが多くの死傷者を出し、領土も獲得できなかった。また、アムルは再びヒッタイトの属国となった。ヒッタイト国の生命線は鉱山を掌握していることと、その交易をおこなうためのルートを確保するところにあったが、キリキア地方の山道とメソポタミアへのルートとなるシリアを確保しなければ生命線を絶たれることになる。
紀元前1258年 カデッシュの和約。内戦の間に王位を簒奪したハットゥシリ3世とラムセス2世との間に和平条約を締結。ハットウシリ3世はファラオに娘を嫁がせる。
紀元前1250年ごろ モーセによる出エジプトはこの時期とされている。エジプトからヘブライ人が大挙ペリシテ人、エブス人などがいたカナンの地へと移動。ギリシャとトロイアが戦ったトロイア戦争もこのころ。
紀元前1176年 エジプトデルタ地帯にペレセト人、チェッケル人、シャルダナ人、ダヌナ人、ウェシェシュ人、シュケレシュ人が侵攻し、ラムセス3世が打ち破る。翌年アルザワ、アラシア、カルケミシュを海の民が滅ぼす。
紀元前1178年 シュッピルリウマ2世のとき、海の民との海戦にいくつか勝利しながらも、キリキアやキプロスというヒッタイトの生命線を切り取られた。ハットウシャは全焼し、カスカ、フリギア、ブリゲスの連合に攻撃されて以降ヒッタイトは歴史から姿を消した。全方位の敵からの脅威をはじめとして、折からの気候変動、飢饉による一帯の食糧難によりヒッタイト王国は消滅。その後はシロ・ヒッタイトとして小国に分れフルリ人らと同化していったとされている。
ヒッタイト王国からローマ帝国への体系接合
シュッピルリウマ2世はヒッタイト王国最後の王となりました。アルヌワンダ3世が即位後1年ちょっとでヒッタイトの民の反乱により亡くなったので、弟のシュッピルリウマ2世が皇位を継いだということですが、その正当性については周囲に疑いをかけられていたとされています。統治期間30年弱です。結構長い統治にもかかわらず妻や子についての記述もなく不明です。この王は「ヒッタイト王国をキレイに閉じるための王」だったのではないかという疑念が起こります。即位するだいぶん前から潜入工作を行っていたのではないかと。もしくはヒッタイト王国そのものが文明発展のために働く「傭兵国」だった、とか。
ヒッタイト王国が滅びる50年前ごろ、ギリシャのポリス連合軍とトロイヤが戦ったトロイア戦争でトロイアが陥落しました。トロイヤと婚姻同盟を結んでいたフリギア国が、トロイヤ陥落後にヒッタイトに襲い掛かりフリギア王国を大きくしていくという流れになります。フリギア国出身のアイネイアースはトロイヤ王の娘クレウーサを妻としてトロイヤにいました。同盟国であるトロイヤとともに戦っていたアイネイアースは、父を背負い妻と子とトロイアを脱出しましたが、途中で妻や父を失います。それでも息子と一緒にクレタ島を経由してイタリア半島にたどり着いたのです。
そうしてアイネイアースはラテン王の娘と結婚し、後に子孫が王政ローマの建国者となっていきます。共にトロイアから逃げてきたアイネイアースの子がラテン王アスカニウスです。このアスカニウスの腹違いの兄弟とされる人物にラテン王シルウィウスがいます。この方たちとシュッピルリウマ2世の在位は次のようになっています。
紀元前1207年ー1178年 シュッピルリウマ2世
紀元前1179年ー1141年 アスカニウス(死亡1141)
紀元前1179年ー1141年 シルウィウス(死亡1121)
シルウィウスの14世孫がロームスであり、初代ローマ皇帝となります。
アスカニウスとシルウィウスは共同統治だったということでしょうか。しかし、ラテン王を連綿と継ぐのはラテン王の血を継いだシルウィウスです。
このシルウィウスがヒッタイトで幼いころから育てられてシュッピルリウマ2世となり、ヒッタイトの政体や秘匿されていた製鉄技術などをわがものとし、終いにはヒッタイトを潰してイタリアにもどってラテン王を皇位継承したのだとすれば、あり得ないこともない気がします。とすれば、ヒッタイト王国の後継者が偉大なるローマ帝国であるということにつながっていきます。
まとめー忍者ハットリくんみたいなヒッタイト王国
竹内文書の内容が次第にわかってくる中で「日本が世界の始まりなんじゃないか」という期待感の相まってか、世界中に日本の痕跡を探すひとがますます多くなっている中で、日本の肝を握るともいわれる秦氏はハッティなんじゃないのか?とする説も多くみられます。
興味がわいた私自身でも調べてみて感じることは、ヒッタイトという国が動くと他の人が儲けるみたいな感じが続くんですよね。
なにか、ヒッタイト王国だけではなく、もっと大きな視点がなければならない遠大な計画があるようにも見えてしまいます。
その意味では遠大な計画のなかで、陰で動く忍者のような、傭兵国家のような印象を強く持ちました。
まあ、ハットリくんは秦氏の一員なのでしょうが、ハッティが秦氏かどうかはわかりません。
では、次に「ヒッタイトの最期にかかわった国」の一つとしてフリギア王国を掘り下げます。
鉄と金と馬をもたらしたスキタイサカ族 月氏 匈奴
海のスキタイ島ケルト人、フェニキア人、エブス人ら文明を運ぶ海洋民族
エジプト18王朝アクエンアテン王と天孫ホアカリ
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