ネタばれ注意『鬼滅の刃』が社会現象となったのは新型コロナとの関係があったから

炭次郎 人間に戻してやるから



【最終更新日 2020年11月15日】
社会現象と言われるほどとなっている『鬼滅の刃』ですが、今はやる理由はなんでしょう。

「鬼」を神上がりさせる知恵

2020年のハロウィンは自粛傾向にありますが、ハロウィンというお祭りはもともと日本にあったモノではありません。「日本にハロウィンはいらない」という割合が6割越えというデータがありますし、騒ぎが起きるので話題にはなりますが、国民的行事とはまだ言えません。

と言いつつ、事故物件が異常な人気を集めているというご時世でもあります。
こどもも3歳ごろからなぜかお化けモノの絵本が大好きになります。なんででしょうね。

幽霊とかゾンビとか妖怪ものが面白おかしく変身して人間と共存しているドラマもやっていますし。平安時代、生霊に嫉妬されて殺された姫が物語に登場しましたが、そうした生霊などの「鬼」が現実世界を脅かすため、陰陽師が実際に活躍しました。

今では神様となっている菅原道真公が怨霊となって都の人々を苦しめた話は有名ですね。恨みを持って亡くなり怨霊(鬼)となった平将門公も今では神様です。

日本にはもともと「鬼」を神上がりさせるという考え方があったんですね。

 ところで、鬼とはなに?

「鬼(キ)」という漢字の原義は「死者の魂」を意味しています。言霊学でいえば、「お」は汚物、嘔吐、悪露など悪いもの、汚れたものにも使われますが、緒、という結び目、つなぎ目も表します。それは何かの作用に応じたの反応の姿を示します。「に」はいろいろなものを吸収したあとの変化のことです。

国(くに)は組んで吸収して開化したもの、埴(はに)は言の葉が開化して生ったものです。「鬼」を一言で言えば、人の感情の現れということになりましょうか。感情はなにかの作用に反応して沸き起こるものですし、死んでいるかどうかにかかわらず、感情そのものの開化が「鬼」です。これまでの人類がため込んできた世の中の不条理や理不尽への不満や怒りも「鬼」の正体の一つです。

鬼と言っても般若の面のような「教導の怒り」という救いの一種を示すものもあります。それもまた怒りという感情の表れなのでしょう。

般若 鬼滅 Reimyさんによる写真ACからの写真

その意味で戸籍を持たないとされる「ヤタガラス」が、世の中にはびこる鬼を誰にも知られないように粛々と抹殺するのも彼らなりの正義の刃であり、その剣は『鬼滅の刃』と言えるのかもしれません。

感情ですから、それが醜ければだれもが心の奥底にしまい込みたいモノです。人間は誰だって感情を持っていますから、誰もが鬼になる素質を持ち合わせているということです。

でも、自分は鬼になりたくはないし、鬼のような自分がいるなら追い出したい。

でもでも、本当は鬼となって感情をさらけ出したい。鬼と言われようが、自分を思いっきり出したい。

その気持ちを代弁したのが『ありのままで』です。エルサって童話の中では「魔女」ですよね。鬼のカテゴリーです。

『アナと雪の女王』から『マレフィセント』へつなぐディズニー映画のメッセージ

ディズニーのアナ雪では、アンデルセンの『雪の女王』の出自が語られています。人を傷つけてしまう魔法を生まれながらに持っていることで、手袋をはめ、自分を隠して女王となったエルサが葛藤の末に「これでいいの!自分を信じて!」とありのままでいる道を選択し、孤高の女王となるまでが描かれました。

アナ雪を追いかけるようにして、2014年7月に公開されたアンジェリーナ・ジョリー主演の『マレフィセント』も、眠れる森の美女・オーロラ姫を永遠の眠りに就かせた邪悪な妖精目線からの物語であり、ディズニー映画は畳みかけるようにして「英雄でも邪悪なものでもない、そのどちらでもあるマレフィセントこそが二つの国を統一したのだ」というメッセージを送ってきています。

邪悪である自分を肯定したい、活かしたい、そして人とも協力(利用?)したいし、この魔法があればできるといって、これまで地下に隠れて暮らしていた世界中に潜む「小鬼」「小悪魔」たちを解放したのがアナ雪。「女性解放、自己実現の推奨映画」だという向きもありますが。

英雄の中にも邪悪は存在し、それを打ち負かし世界を統一できるのは「邪悪な妖精」だと『マレフィセント』は結論づけています。

ありのままでいたい鬼を殺すのが『鬼滅の刃』です。なぜなら人に迷惑がかかるからですね。人を喰うんですから。鬼を殺す理由を、主人公の炭次郎(たんじろう)はいいます。

炭次郎 鬼滅の刃

「きっと、人間に戻してやるから」

『鬼滅の刃』は『アナと雪の女王』のアンチテーゼ

炭次郎が言った「きっと、人間に戻してやるから」という言葉は、鬼と化した妹の禰豆子(ねずこ)に言ったものです。

禰豆子 

ですが、実際は殺した鬼たちすべてへ向けた言葉でもあり、『鬼滅の刃』の根底を流れるテーマでもあります。

「鬼」というものは超人的な能力を持ち合わせています。感情の表れが「鬼」ですから、異次元のパワーや殺気となって相手に挑みかかります。これはエルサの「ブリザードを呼ぶ手」と同じです。普段は現れないけれども、意志を持ったときに働きますし、感情を揺さぶられると歯止めがききません。マレフィセントの眠らせる魔法も同様です。彼女は復讐のために黒魔術を掛けたのです。

人間に戻る、ということは魔法がなくなることを意味しています。人間に戻れば魔法を使う能力は消えます。

アナ雪やマレフィセントが、「人間と妖精の国の統一は、人としての感情と魔法のどちらも持ち合わせたマレフィセントが成し遂げる」とあくまでも魔法を捨てない手法であるのに対し、『鬼滅の刃』では「いやいや、魔法を乗り越えて人間に戻るんだ」といっているのです。そうして味方を失いながら、自らも鬼と化した後鬼をせん滅します。

『鬼滅の刃』は天皇に伝わる秘法”タマガエシ”そっくり

「きっと、人間に戻してやるから」

炭次郎 

という炭次郎のその姿勢は、数々のハタレ、ハケモノ、物の怪、人のようで人でないモノたちを葬り去った日本の神々、ツハモノヌシやスサノオとダブって見えます。

「タマガエシ」で鬼を人に戻したツハモノヌシ

「タマガエシ」とは、いったん闇に落ちた心を持ち、姿もバケモノのようになってしまったものが、今度生まれ変わるときには真っ当な人間として生まれることができる、という技です。この技を発明したのはココトムスビという神でした。住吉大社などに祀られている神様です。

そして初めて実行したのはツハモノヌシ・フツヌシ・タケミカツチの神々です。それぞれ軍神として鹿島神宮・香取神宮などに祀られます。鬼たちは「わたしをどうか人にしてください」といって死んでいったということです。
神々は「きっと、人間に戻してやるから」と祈ったに違いありません。

ハケモノに対し「タマガエシ」を行って神上がり、というか「人上がり」したわけですが、同じころ出雲で事件が起きます。

八岐大蛇を神上がりさせたスサノオ

八岐大蛇(やまたのおろち)が娘を7人喰い、大騒動が起きていました。運命の為せる業のごとく出雲に居合わせたスサノオは8番目の生贄(いけにえ)に差し出されようとしていたイナダヒメを救いだし、八岐大蛇を酒によっばらった隙にズタズタに斬り殺しました。そうするとスサノオは剣を手に入れたのでした。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と言います。この剣は不思議に紆余曲折を経て現在名古屋の熱田神宮の御神体として祀られるということです。

スサノオは八岐大蛇を丁重に葬って祀ったと記述されています。神上がりした八岐大蛇は、やがてイワナガヒメとして生まれ変わったことが『ホツマツタヱ』により知ることができます。人として一定の地位ある家に生まれ変わることができたことは、スサノオが自らが殺した八岐大蛇を祀って、八岐大蛇が神となったからでした。

鬼も、大蛇も、怨霊も祀って神上がりさせる。そういう知恵が日本には古来よりあったのです。
炭次郎が、鬼に対して慈悲の心を示すことで成仏させているという点でよく似ています。

ズバズバ鬼を切り捨てていく姿は、残酷なようで「なぜ、幼児がこれを好きなの?」と思ってしまいますが、本当は残酷なグリム童話のごとく、「子どもの魂の栄養になる」ということでしょうか。そういう意味では、現代の「おとぎ話」に近い役割を果たしているのかもしれません。

『鬼滅の刃』が社会現象となった新型コロナとの関係

『鬼滅の刃』劇場版が3日間で340万人以上、3週間で約1500万人興行収入約200億円を達成したとして、社会現象化しています。まんがやアニメを昔からみているファンにとっては、ストリーや戦闘シーン、キャラクターの背景など物足りなくてアニメ初心者向けとされながらも、社会現象といわしめるヒットになりました。

これまで歴代興行1位を誇っている『千と千尋の神隠し』と比較してみましょう。

歴代興行収入1位『千と千尋の神隠し』からのメッセージ

『千と千尋の神隠し』が封切となったのは2001年7月20日のことでした。映画公開と同時に爆発的人気を呼び16週連続1位を記録しました。11月までに260億円の興行で、1年以上のロングランで308億円の興行収入をたたき出し、それまでの1位だった『タイタニック』(262億円)を抜いて1位となりました。

それだけ多くの人に見せたかった「なにか」があったにちがいありません。

宮崎駿作品に共通して流れる「大自然が破壊されること、大自然の中にいる神々の弱体化への警鐘」みたいなものが、『千と千尋の神隠し』にも当然ながらあります。

変で、不完全で、不気味で、不器用な八百万の神々が登場し、神々は人を襲う「妖怪」や「鬼」のように変貌もします。まあ、そうですよね。自然はいつも人に優しいわけではありませんし。神々が人にとって敵対するような貧乏神となり、罪やケガレがたまってくると「妖怪や鬼」となるという考えです。もともと人間にとっては魔法のような力を持つ神が、汚れて鬼となる、といいます。

主人公の10歳の少女・千尋は、「鬼」と化した神の罪ケガレ、毒気を、10歳の少女らしく抜いていきます。最大の「鬼」は何と言ってもカオナシなのでしょう。カオナシはなぜだか千尋を気に入って、いろいろモノ仕掛けで取り入ろうとしますが、10歳の少女にはシカトされます。

カオナシは何かというと「資本主義」とか「匿名のSNS民」と解釈する人もいます。資本主義が、自然に対して毒をまき散らして壊して支配し、匿名のSNS民は、顔がないくせにものすごい暴君のように変貌して他人の人生を狂わせてしまうときがあります。「価値がないもの(貨幣・フェイク情報・ワクチンなど)を価値があるように見せかけて相手を釣って支配しようとするもの」それがカオナシです。

10歳の少女が立ち向かっているモノは、ものすごく大きな存在です。アニメの中の千尋は最初、死んだ魚の目をしていますが、終わるころには生きる力を身に着けた一人の女性としてしっかりとそこにいます。

生きる力。それは意志を持つということです。自分の意見をもって、カオナシと等身大でそこにいます。
カオナシはもう、追いかけて脅さなくても何かで人を釣ることも必要ありません。

描かれる姿の大きさは、「威嚇」のデフォルメです。等身大のカオナシは威嚇することもなく、襲い掛かることもなく静かにたたずみます。「人(等身大)に戻った」のですね。

『千と千尋の神隠し』が述べ2350万人もの動員を集めたのは、プロモーションのおかげも大きいのでしょうが、それだけではなさそうです。

ちょうど公開の最中であった2001年9月11日、イスラムの過激派テロ組織アルカイダによるとされる自爆テロが起きました。この事件はいまでも真相が明らかにはなっていませんが「自作自演」シナリオによるものだという見方もあります。理解を超えた思想が世の中にはあります。世界一の大きなツインタワーが、乗っ取られた旅客機に突っ込まれて、崩壊していくさまが何度もテレビに映し出されました。これは、カオナシが起こしたの最たる事件だったのではないでしょうか。

世界中でなにか、異変が起きている。その予感をこのアニメ映画に感じる不気味さの中で与えようとしたのではないでしょうか。

「普通にしようよ」
「威嚇しなくていいから」
「等身大に戻ってよ」と。

炭次郎がいった「きっと、人間に戻してやるから」という言葉は、「きっと、普通の女の子(等身大)に戻してやるから」と言い換えることもできます。妹・禰豆子が鬼となった時の身体能力は目を見張るものがあります。そういう特殊能力を見せびらかさないでも等身大に戻ることが重要だったのです。

『鬼滅の刃』のメッセージ

社会現象となるには、その時代の中での『鬼滅の刃』の存在意味があるからでしょう。
6年前に大ヒットした『アナと雪の女王』へのアンチテーゼという見方は先にお話ししました。

2001年から興行収入1位の座をいまだに譲り渡していない『千と千尋の神隠し』との共通点は「鬼を人に戻す」「異常なものを日常(等身大)に戻す」という、鬼との関係性がありましたが、やはり、その考えかたの根底には「日本的なもののあり方」が流れていると思われます。

日本を舞台にしているのだから当然と言えば当然なのですが。
日常に戻す、と言いつつ、つねに「神隠し」に遭うような入り口があちらこちらにあり、神々や鬼の世界が日常と隣り合わせに生きているという感覚。日常がすでに神々・鬼と融合しているのが日本です。

お金や、きらびやかな宝飾品や、高級車や、”上級国民”、特殊能力、魔法、支配力などの地位やパワーを身にまとう必要はなく、等身大に戻ろう。

そういう呼びかけのようにも聞こえます。何も肩書のない、しかし意志はしっかり持っているという自分に戻ることが大事なんだよ、と。

疫病退散・新型コロナ退散の『鬼滅の刃』

そして、もう一つ見逃せないのは、『鬼滅の刃』に登場する鬼軍団の配下の中で一番強いとされる「黒死牟」という上弦の壱の鬼は、その名の通り「黒死病」の人格化との考察があります。

鬼とは「病・ウィルス」の擬人化であると考えれば、世界的に流行してパンデミックを起こしている新型コロナウィルスが、目下のところ最大の「鬼」といえるのでしょう。

『鬼滅の刃』の最強、最悪な鬼・鬼舞辻無残(きぶつじむざん)は、入られて鬼化した炭次郎が「鬼」を克服して最期を迎えています。その姿はスサノオを彷彿とさせるものです。

そのスサノオは疫病退散の神なのです。

「新型コロナ第三波を追い払え!!!」
鬼滅の刃で。

【余談】スサノオとマレフィセントの共通点

ディズニー映画『マレフィセント』のメッセージは「英雄でも邪悪なものでもない、そのどちらでもあるマレフィセントこそが二つの国を統一したのだ」というものです。そのようにして実際の女王をサポートする役回りです。

「英雄でも邪悪なものでもない、そのどちらでもある」という言葉はそっくりそのまま、スサノオにも当てはまります。幼い時から暴れん坊で、泣きわめくわ騒ぐわ、母親のイサナミは、スサノオの罪・穢れを落とすために熊野の宮を建てて祈ったほどです。

長じても時のアマカミであるアマテルカミに反抗し、当時の「大奥」内の反乱分子とつながっていました。それらに担がれて久データー計画が進む最中に情報が洩れて、反乱分子は島流しに遭います。それを不満としたスサノオが暴れた結果、12人后の一人が命を落とします。その咎により罪人の入れ墨を入れられ、下民に落とされたのでした。

タカマの天津神から、下民への転落。
世界を流浪した挙句に、出雲での八岐大蛇退治がありました。その後もタカマへ忠誠を尽くしてやっと許され、国津神へと復帰を果たしたのです。スサノオは「英雄であり邪悪でもある、その両方である」存在です。その意味でマレフィセントとよく似ています。

ただ、「英雄と邪悪、そのどちらでもあるスサノオこそが二つの国を統一したのだ」とは言いません。それこそはクーデターの動機になった考え方そのものじゃん!

八岐大蛇を退治した時点ではまだスサノオの中にそのような驕りが見られたようで、スサノオが慕う姉のワカヒメはそれを見破りスサノオを一蹴します。そういうことがあり罪ケガレ落としに励んだのです。

日本の天津神と国津神にははっきりと階層性があります。階層思考がないことが『マレフィセント』の欠陥です。

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